(第33回)廣枝音右衛門慰霊祭に参加して

廣枝音右衛門(ひろえだおとうえもん)と書いても歴史上の人物として取り上げられることは滅多にないので、ご存じない方が多いと思いますが、この方の慰霊祭に参加しました。場所は苗栗県獅頭山勧化堂でした。

(獅頭山勧化堂の後廟)

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(慰霊祭の様子、24名の台湾人と日本人が列席されました。)

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(廣枝音右衛門のお位牌)

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廣枝音右衛門は1905年神奈川県小田原生まれ。1930年台湾総督府警察官に採用されます。基隆・新竹・竹南・大湖・苗栗に勤務しました。そして、警部補に昇進した1943年フィリピン(マニラ)へ海軍警部巡査隊隊長として台湾人兵士500名を率いて派遣されます。

 (若い台湾兵士には父親のように慕われて、部下の事を思い遣った上官だったそうです。)

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1942年日本軍はフィリピンを占領していましたが、1944年10月日本軍はレイテ沖海戦の敗北を皮切りに戦況が悪化します。そして1945年1月、米軍は連合国捕虜とルソン島奪還のためにリンガエン湾から上陸して首都マニラを目指します。

廣枝はその様な時期に台湾人兵士を連れてフィリピン(マニラ)へ守備隊として着任したのです。1945年2月から3月にかけてのマニラ市街戦での攻防戦に巻き込まれます。懸命に戦うも、最期は部下の台湾人兵士を説得して投降させて廣枝自身は責任者としてイントラムロス城内で自決をします(享年40歳)。

ちなみに、このマニラ市街戦では一般市民を含めて10万人が犠牲になったそうです。そしてその責任で敗戦後に陸軍大将山下奉文マレーの虎と言われた)が現地での軍事裁判に掛けられて死刑判決を受けます。

 

下記は、廣枝音右衛門が最期に部下へ残した言葉と言われています。

『お前たちは日本の御国のためによく戦ってくれた。しかし、このままでは犬死となる。両親や兄弟、そして妻や恋人が台湾でお前たちの帰還を待っている。これからはお前たちが台湾を守る人材だ。私がお前たちを連れて帰れないのは残念だが、降参してでも生き延びて絶対に台湾に帰還しろ。これは私の最後の命令である。そしてこの責任は隊長である私一人が負う。』

 

この時の部下数名が米軍の捕虜になりながらも無事に台湾へ帰還。1976年白色テロ戒厳令がまだ続いていた台湾で廣枝音右衛門(上官)の慰霊祀りが始まったのです。

2008年からはこの話に感銘を受けた日本人ボランティア団体が今日もなお志を引き継いで毎年主催しているのです。既に廣枝音右衛門の直属の部下は全員が天寿を全うされたために、その子孫の方々が列席されています。

 

さて、上述の台湾人が何故フィリピン(マニラ)まで海軍兵士として駆り出されたのでしょうか?

 

実は1942年から台湾において本格的な志願兵制度が施行されました。先ずは陸軍特別志願制度で、漢族系台湾人4200名+高砂族系台湾人(高砂義勇隊)1800名(合計6000名)が志願しました。翌年1943年には海軍特別志願制度が実施されて、11,000名が海兵隊に入隊しました。

 

これほどの志願兵が集まったのも1930年代から始まった同化政策皇民化政策による日本人化教育の影響も多大であったかと思います。

⇒第22回をご参考ください。

 

廣枝音右衛門が率いた500名は新竹州で募集された海軍特別志願兵で、上述の11,000名の一部であったわけです。志願年齢は17歳から33歳までの男子とされました。1945年終戦の年には台湾人も徴兵制度により強制的に兵役義務を負うことにはなったものの、既にこの志願制度においても半ば非国民呼ばわりされるのを恐れてのやむを得ない志願も有ったかと想像します。

 

日本陸軍と海軍へ軍属した志願台湾人兵士(1万7千名)の内、約2千名が南方戦線から帰還したそうです。先の戦争で日本兵の軍人軍属として駆り出された台湾人は20万人強、その内で戦死或いは病死した台湾人は三万人強でした。

 

残念ながら、それら軍人軍属に属した台湾人は、戦後の国籍変更により日本国政府からは何らの金銭的戦後補償も受けられていません。また1952年日華平和条約の締結により中華民国からも同様の扱いでした。国民党政府(或いは、大陸からの外省人)からは日本人へ協力者と見られて残念ですが辛いめにも遭った家族も多いと聞きます。

 

 

(第32回)中華民国中央銀行と台湾銀行について

現在流通している紙幣及び貨幣を見ると発券元は、中華民国中央銀行と印刷されています。取りも直さず、台湾政府系の唯一の中央銀行で発券業務を司っているわけですが、日本の中央銀行日本銀行であるように、台湾の中央銀行は、嘗て日本統治時代の中央銀行だった台湾銀行が現在でも引き継いでいるものだと思っていました。

中華民国中央銀行は、1928年上海で創設されました(上海中央銀行)。同年には軍閥首領張作霖関東軍により奉天(現瀋陽)で爆死された事件が有りました。また中華民国南京国民党政府が北伐を進め、上海で共産党を弾圧始めた時期とも重なります。

ところが1949年国民党政府は国共内戦に敗れて台湾へ遷都します。その頃既に台湾では日本統治時代も終焉してはいましたが、中央銀行の役割は台湾銀行が担っていました。中央銀行は実際の金融政策策定や銀行管理を行っていましたが、紙幣の発券業務は、2000年の新紙幣改定まで中華民国行政院台湾銀行に委託する形で代行していました。

元々日本の統治時代から終戦にかけても台湾総督府傘下に台湾銀行が存在していました。植民地としての特殊事情もあり、1897年日本本国から独立財政を目指すために設立された発券銀行中央銀行)であると同時に商業銀行でもあったのです。

 

(上:私が持っている1981年発行旧千元紙幣で蒋介石の図柄、下:現在流通している千元紙幣)

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ちなみに、日本敗戦後に業務を引き継いだ台湾銀行が発券した台湾兌換券は、急激なハイパーインフレで経済危機により千元紙幣・一万元紙幣も発行されました。経済回復のために通貨改革(デノミネーション)が実施されて新台湾ドル1元:旧紙幣4万元の比率で交換されましました。

 

(1937年完成した石造りの台湾銀行本店、現在でも当時の姿と変わりありません。台湾総統府に寄り添う様に建っています。当時の銀行建築の代表のひとつで、正面二階部のギリシア風の支柱が印象的。)

 

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さて日本統治時代に時間を戻しますが、統治初期の段階では台湾総督府は殖産興業へ緒に就いたばかりでした。そのため、台湾銀行設立当初は日本本土から独立した植民地財政計画を建てることは不可能でした。

そこで1899年台湾総督児玉源太郎と民生長官後藤新平の発案で専売事業を軸に『財政二十箇年計画』を立案しました。日本本土での財政収支から台湾総督府補助金として20年間継続して毎年歳入補填とすると言うものです。

⇒専売事業に関しては、第24回ご参考ください。

 

更に歳入補填以外に、南北縦貫鉄道敷設・基隆と高雄港湾築港・土地調査の三大事業ための公共事業公債発行(総額3500万圓)を計画しました。台湾経済の自立化及び台湾総督府としての財政黒字化(独立化)のための財政手段です。すなわち、官営事業を中心として積極的に殖産興業を展開して財政赤字を徐々に減らしていく方式です。

 

(当初は、総額6000万圓の公共事業公債を計画しましたが、最終的に3500万圓となりました。)

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1918年度までが当初の補填期間計画でしたが、土地調査事業による地税増加、樟脳・阿片・食塩・煙草など専売事業による収入増、事業公債による縦貫鉄道の開通と高雄と基隆港の開港による森林事業や貿易取引増、更には糖業の民間事業急成長による砂糖税増収や米穀物増産収入により、予想外に前倒しで1911年度には補助金補填も事業公債発行も無しに独立財政を達成できたのでした。この財政健全化は日本の敗戦1945年まで継続することになります。

上述の事業内容を中央銀行兼商業銀行であった旧台湾銀行が台湾発展の重要な役割と実務を担っていたわけです。特に、土地事業・森林事業・水利事業に関する銀行業務は、台湾銀行から勧業銀行(現台湾土地銀行)へ業務委託をしていました。

(旧勧業銀行、現在では台湾土地銀行の管理の下で国立博物館の一部として開放中。これも石造りで銀行建築の名残。)

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(第31回)毛沢東夫人(江青)と蒋介石夫人(宋美齢)

1991年6月、毛沢東第四夫人だった江青が北京郊外の監禁先で自殺したニュースを人民日報で知った時のことはよく覚えています。四人組の一人として裁判の様子や死刑判決のTVニュースも衝撃的でしたが、まだ生きていたんだと言うのが正直な印象でした。

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当時はちょうど日系商社マンとしてちょうど北京に駐在していた時期でした。周りで文化大革命の時期を過ごした私と同年配以上の現地スタッフは、それなりの感想も有ったでしょうが、若いスタッフは興味も無いような雰囲気でした。

1930年代には上海で銀幕の女優スターであったのが、毛沢東と結婚して政治参加させないはずの周恩来との約束を反故にして、文化大革命を扇動した共産党中央政治局員にまで上り詰めて『紅色女皇』とまで呼ばれるようになったのですから。でも一体、中華人民共和国と国民に何を残したのだろう?

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もっとびっくりしたのが、2003年10月、アメリカで蒋介石のこれまた第四夫人だった宋美齢(享年105歳)が亡くなったニュースを聞いた時でした。蒋介石蒋経国さえもうとっくに亡くなっていました。

国民党以外の初めての民進党陳水扁氏の政権時代で、ちょうどSERS(重症急性呼吸器症候群)が流行った時期でした。私は某装置メーカーの営業マンで台湾市場を開拓している最中で台北へ駐在する前年です。

宋美齢は中国浙江省の裕福な家庭に育った三男三女の4番目の子でした。父親宋嘉樹は敬虔なクリスチャン(宣教師)で聖書の発行と印刷でひと財産を築いた大富豪でしたが、孫文の革命支援者でもありました。

一女(宋霭齢)と二女(宋慶齢)は共に孫文の秘書でしたが、二女が孫文に嫁いだのもそのような背景からです。

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宋美麗は9歳でアメリカへ留学した経験から英語が堪能でした。支那事変から大東亜戦争へと中国全土に拡大の兆しが見えると、1936年西安で軟禁状態にあった蒋介石を救い出し国共合作を勧めました。

1943年には蒋介石の通訳兼スポークスマンとして、アメリカ合衆国各地で抗日戦への軍事支援要請の演説をして軍資金捻出や義勇軍を引き出しました。これにより圧倒的に航空力で日本より劣っていた空軍の立て直しました。

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更に同年カイロ会談に蒋介石と共に出席して、米英に対して戦後の台湾及び澎湖島の中華民国への返還も約束させました。その結果、日本政府が水面下で進めていた日中戦争終結のための単独講和も水泡に帰しました。

戦後は中国大陸から台湾へ活動拠点を移したため、兄弟姉妹とは会うこともありませんでした。1975年蒋介石が亡くなると米国へ居を移します。

蒋介石夫人としての影響力は残しましたが、時代は李登輝氏により総統選挙や国会議員選挙の実施で民主化が進みました。国民党一党支配から民主党政権にもなりました。

『権力を愛した女性』とも言われていますが、それは江青も同じです。それでも日本統治時代末期から大陸反抗までのある時期、中華民国と台湾の歴史上で、ある意味宋美齢による行動が蒋介石や米英首脳陣の政治的判断に多大な影響を与えたのは間違いないと思います。

(1950年から蒋介石が亡くなる1976年まで一緒に暮らしていた士林官邸、現在では一般住居及び庭園が当時のまま開放されている。)

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(第30回)台湾バナナについて

台湾の歴史からは少々逸脱しますが、今回は嘗ては外貨収入の稼ぎ頭の一つだった台湾バナナについて書きたいと思います。

私の趣味は歴史以外ではランニングで国内外各種マラソン大会にも出走しています。どの大会でも給食場所(エイド)に1/3にカットされて置かれているのがバナナです。

嘗ては台湾製糖工場があり、台湾バナナの産地でもある高雄近郊の旗山バナナマラソン大会に出走したことがあります。エイドでは特産のバナナを使った食べ物(バナナそのものは勿論、バナナケーキ、アイスキャンディー、クッキー、何故かスープなどなど)が置いてありました。特にバナナケーキは絶品でお土産に買って台北へ帰りました。

 

(2018年バナナ畑の中もマラソンコースに設定されている思い出深い大会。バナナ柄のTシャツを着てと疑似バナナをぶら下げてのプチコスプレで出走した思い出深い"香蕉馬拉松"大会。)

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(バナナ畑のコースで)

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さて、このバナナですが、台湾は生産地としては北限に位置するのだそうです。1903年日本が統治していた時代、春から初夏にかけての果物が少ない端境期のために、台湾産バナナを何とか果物として日本へ持ち込もうとしたのが最初らしいです。

(台湾はバナナベルト地帯(産地)の北限地点。高温且つ雨量が必要。)

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その当時の日本側の入港窓口は門司港だったとのことです。最初のうちは竹で編んだ籠に入れて持ち込んだとのことです。台湾は日本領土の一部でしたから、統計上では輸入と言わずに移入と呼んでいたらしいです。検疫検査も有って無いようなものだったのでしょう。

足が速いバナナですから、そのために門司港ではバナナの叩き売りが流行ったのだそうです。1924年台湾総督府主導で半官半民の果物青果株式会社を興して台湾バナナ普及に努めたのです。

しかしながら、40年代に入ると戦況も日々厳しくなったので、バナナよりも米穀増産計画を優先した結果、バナナの日本への移入量が激減することになります。

戦後になり50年代から60年代になると逆に日本への輸出量が急激に伸びました。当時はバナナと言えば台湾バナナを指したものです。しかし、価格が高く高根の花で病人でもないと一般人には手を出せない果物でした。

私は50年代末生まれですが、幼児だった頃にこのバナナを食べさせて貰ったらしいのですが、そのために今でも好きなのかもしれません。そして60年代になるとコレラ流行により台湾産バナナは輸入激減して安いフィリピン産に取って代わります。

70年代にはいると日本への輸出量は回復します。台湾の外貨獲得金額の1/3がバナナに起因していた時期もありました。ところが、最近では、1位フィリピン(9割以上)、2位エクアドル、3位メキシコ・・・10位台湾の順位だそうです。

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それでも最近ではコロナウィルスの関係で輸入制限もあり、少々値段の高い台湾産(嘉義県阿里山)のバナナも売られているようです。高山バナナとでもいうのでしょうか、この辺だと2千メートルから3千メートルの高度は有りますから。

日本に輸入される果物のうち半分以上を占めているのがバナナだそうです。国内での消費量も、みかんに次いで2位、りんごより多く食べられています。ほかの果物と違って、1年中収穫できることが要因だと思われます。

また日本での1人当たりの平均消費量は年間7~8kgで、ヨーロッパや北米の15~16kgと比べて圧倒的に低いのが現状なのでもっと日本人には台湾バナナを食べて頂きたいですね。

 ちなみに、あのマンゴーの輸入先ランキングは、1位メキシコ、2位、3位ペルー、4位台湾だそうです。

 

 

(第29回)終戦と引き揚げ事業について

今回は、日本の台湾統治の終焉である中国戦区台湾省降伏受諾式典(無条件降伏)後の日本人引き揚げ事業について書きたいと思います。

降伏受諾式典に関しては、第2回ご参考ください。

 

(1945年10月25日、台北市内(現中山堂)で行われた中国戦区台湾省降伏受諾式典の様子。降伏文章に署名する最後の臺灣総督陸軍大将安藤利吉(左側)、降伏文章を受領する台湾省行政長官陳儀(右側)、これが日本の統治時代終焉の瞬間。)

 

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降伏受諾後、最後の台湾総督府総督であった安藤利吉は、行政長官陳儀により台湾官兵前後連絡部(部長)に任命されます。また台湾総督府の東京連絡事務所が改称されて台湾総督府残務整理事務所が外務省管理局の下で設立されました。

1946年から1952年(サンフランシスコ平和条約発行)まで設置された特別部署で、名前の通りに日本統治時代における台湾総督府の残務整理が任務でした。主に引き揚げ職員の人事・会計・一般引き揚げ者の証明発行などを担当していました。

この事務所が1946年4月に作成発行した『台湾統治終末報告書』は、次の様な文章から始まります。そして下記内容で第7章結論まで報告されています。(原文のまま)

 

『吾が國の臺灣統治終局に付きまして顛末を御報告申し上げますことは感慨無量の至りに存じますが4月下旬在臺40余萬の軍官民の引き揚げ還送が完了致しました此の機会に終戦後の臺灣の実情殊に接収の経過、在留日本人の動向と其の還送等に付き以下概略御説明申し上げます。』

 

1、終戦直前の島情

2、終戦直後の島情

3、接収の概況

4、本島人の動向

5、在留日本人の動向

6、在留日本人の還送及財産処理

7、結論

 

日本の敗戦に伴い、台湾を始め朝鮮・中国・満州南樺太南洋諸島などの在留日本人の引き揚げ事業が始まります。当初の計画では台湾以外の他の地区からの優先帰還をさせ、台湾からの帰還事業は最終段階に実施される予定でした。

 

(基隆港からの帰還事業の様子、現金千円、食料若干、リュックサック2個程度の身の回りの物のみ持参、30kgの荷物の船便が許可されました。)

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理由は終戦直後の台湾の治安が、他の地域に比べてはるかに良かったからです。また敗戦を迎えても台湾在留日本人のなかには本国へ引き揚げを希望する者はわずかしかいなかったからとも言われています。

在留日本人が台湾人から危害を加えられたり、住居を追われたりすることもなかったようです。また戦前からの紙幣であった台湾銀行券が、敗戦直後も主軸通貨として流通していたのも大きな理由でした。この点が中国・朝鮮・満州と比較して、日本人の敗戦認識の違いなのです。

ところが、中華民国(行政長官陳儀)により台湾に台湾総督府に代わり台湾省行政長官公署が設立されると、状況は急激に悪化しました。大陸系中国人に実権が握られ、台湾人への政治参加の制限に対する不満、インフレの経済状況変化、言語や習慣の違いに起因する些細な軋轢など、台湾省に対する不信感・反感が高まり、それが在留日本人に対しても向けられるようになります。

 

終戦時点で軍人軍属15万7,388人+民間人32万2,156人(合計47万9,544人)が台湾からの引き揚げ者の対象でした(当時の台湾総人口は約600万人)。敗戦直後には、依然として旧第10方面軍が駐留し続けたわけです。連合国にとっても台湾に日本軍(武器は接収したものの)が残留していることは、治安維持の観点から良くないと判断して、早急に在留日本人を日本へ帰還させる方針に変更したのです。

1946年2月から開始された帰還事業は、先ず最初に軍人軍属を優先的に復員させ、その後に民間人を帰還させました。帰還事業は、第一次帰還(1946年2月~4月)、第二次帰還(1946年10月~12月)、第三次帰還(1947年5月)を中心に数回に分けられて最終的には第六次帰還まで事業は続きます。

 台湾各地に住んでいた台湾在留日本人は、 基隆・高雄・花蓮のいずれかの岸壁に仮設された倉庫(集中営)に集められて、3か所の港から乗船しました。台湾からの引揚者が上陸した港は、大竹(広島県)、田辺(和歌山県)、鹿児島(鹿児島県)、宇品(広島県)、佐世保長崎県でした。(名古屋浦賀博多に上陸した例も有り。)

 特に、第二次帰還事業と第三次帰還事業の対象者は、『留用日僑と呼ばれた日本人が対象でした。『留用日僑』とは、教育・研究・専売・電力・糖業・各種産業・農林水産・鉄道・港湾の各分野について中華民国政府にとって有用な人材として中華民国政府から残留要望された日本人及びその家族です。

第一次帰還事業完了後、最後の台湾総督安藤利吉は戦犯として逮捕され上海へ送られますが、隠し持っていた青酸カリで自殺を遂げます。

 

さて第六次帰還事業が終了した後も台湾(国立台湾大学)に留用された日本人が居ました。松本巍(在1924-1968年)植物病理学者で台湾糖業試験所顧問も歴任。磯栄吉(在1911-1957年)蓬莱米の父と言われた。

⇒i磯栄吉については、第15回をご参考ください。

 

台湾総督府残務整理事務所作成の報告書の最後(第七章結論)は、次のように書かれています。(原文のまま)

 『最後に臺灣は日本の版図より離脱致したのでありますが、半世紀に亘る日本との関係は急激に切断し得るものではなく、文化、産業、経済の各部門に亘り今後に於いても日本との連携を要するもの少なからず存ずるものと思料せられます。日本といたしましても、今後なお、臺灣に対する関心を失はず、交易、文化交換等の平和的方法に依り互助互恵の関係を維持し國運再建の一助とし併せて日華提携に寄与する處あらんことを哀心念願して已まぬ次第であります。

 

 

 

 

 

 

 

 

(第28回)閩南語(びんなんご)と台湾語について

私は台湾語(ホーロー語(河洛語・福佬語))を勉強しています。中国語(普通語)は上手ではありませんが、長い期間中華圏ビジネスに携わってきたお陰で、日常生活やビジネス上では不便はしていません。でもせっかく台湾で起業しているのですから、現地言語で簡単な会話ぐらいできたらと思い立ち60歳+αの手習いです。

 (私が使っている”初めての”台湾語の教科書、”6日で話せる”閩南語との謳い文句です。)

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ところで台湾語とは、所謂、閩南語(びんなんご、東南アジアでは福建語Hokkienとも呼ばれます)の派生言語と言われるものです。つまり中国大陸福建省あたりの言葉の派生形なのです。17世紀から19世紀にかけて福建省泉州・漳州・厦門から台湾に渡ってきた漢民族が持ち込んだ言語です。

⇒第5回をご参照ください。

中国語(普通語)と台湾語(閩南語)とは全く別言語です。

例えば、中国語(普通語)の「你好(ニーハオ)」は、台湾語では「リーホー」と発音します。中国語で「おいしい」を意味する「好吃(ハオチー)」は、「好呷(ホージャー)」と単語自体が変わります。

やっかいなのは、中国語(普通語)が四声なのに対して、台湾語(閩南語)は七声である事です。更に鼻孔や歯で響かせたり、舌尖や舌根や喉での破裂音や濁音を出すなど、日本語では有り得ない音を出すので難しいのです。

とにかく音を覚えて丸暗記するしかないと思っていますが、レベル的には幼稚園生か小学生低学年程度でよいのです。「おいしい!」とか「いくら?」とか「お元気ですか?」の類でも十分だと思っています。

福建省を中心に話されている閩語は、出生地を福建省に持つ華人・華僑により台湾をはじめとして、シンガポール・マレーシア・タイ・フィリピンなど東南アジアの華僑・華人コミュニティーでも使われています。

閩語のルーツは、後漢末期~三国時代呉国(長江流域)の言葉だと言われています。3世紀後半に呉国は西晋に滅ぼされますが、現在の江蘇省浙江省一帯から漢民族福建省に移住し始めたことにより、福建閩越族の言語との融合を経て形成されました。

閩語は「十里不通音(十里離れただけで言葉が違う)」という言われるように、方言同士で意思疎通が図れないこともあり、「ある集落が山をひとつ越えただけの隣の集落と意思疎通が図れない」というケースもあります。

そのため、同じ閩南人(みんなんじん)である泉州人・漳州人・厦門人は夫々独立心旺盛な民族である一方で、泉州方言・漳州方言・廈門方言の3種に分類されます。異なる言語の影響で同一地域単位でのみ交流します。そのために、閩南人(みんなんじん)同志の部族間闘争もしばしば引き起します。これは台湾内の歴史でも大きな影響を与えることになります。

⇒第5回をご参考ください。


福建(省)の閩語は基本的に5つに分類できます。

①閩北語→建甌・松渓・政和・建陽・崇安など
②閩東語→福州・福清・古田・福安・蛮講など
③莆仙語→莆田・仙游などで使用。
閩南語→廈門・泉州・漳州・竜岩など
⑤閩中語→永安・三明・沙県など

 更に夫々の閩語が各地方言を持つわけですからその成り立ちは複雑極まりないのです。福建省以外でも閩語が話されている地域もあります。

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現在閩南語での主流は廈門方言で、閩南語の標準語的地位を占めていますが、台湾でも地域によってそれぞれ特色があります。台北泉州方言の要素が強く、台南は漳州方言の要素が強いとされます。


現在台湾では「國民中小学校九年一貫課程」(国民小中学校九年一貫カリキュラム)
の実施により、2 0 0 1年度から全台湾の小中学校において、 閩南語・客家語・原住民語などの所謂『郷土言語教育』が必修科目としてあるそうです。小中学校生徒はこれらの郷土言語から自由選択して履修をします。


このブログでも取り上げましたが、日本統治時代における同化政策の一貫として皇民化運動』の影響で日本語の公的使用と教育が優先されました。逆に台湾語や原住民語の使用が制限された悲しい歴史があります。戦後は国民党政権において北京方言に基づく中国語(普通語)教育が『国語』として行われてきたという歴史も経験しています。

⇒第22回をご参照ください。

現在、台湾の若い世代には台湾語を話せないひとも多いと聞きますが、この『郷土言語教育』は、台湾人としてのアイデンティティーを植え付ける教育政策で非常に良いことだと思います。

 

 

(第27回)台湾ビーフン(米粉)の思い出について

第26回で台湾における初等・中等教育について調べていたら、台湾名物料理のビーフン(米粉)の思い出について書きたくなりました。いつもの台湾歴史の内容から少々ずれますが、ご勘弁頂きたく存じます。

(寧夏夜市にて)

 

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何故、教育とビーフンが結びつくのかをお話します。ワタシの母親(故人)は中学まで長野県諏訪市で育ちました。旧制諏訪高等女学校(現諏訪双葉高等学校)に在籍していたと聞いたことがあります。

戦争末期に台湾台北から一人の女子生徒が諏訪高女に転向してきたそうです。ご両親は静岡県で病院を経営する裕福な家庭でした。何かの理由で台北帝国大学医学部付属病院(内科)に父君が勤務していて家族同伴で台北へ赴任していたらしいのです。

台北帝国大学医学部付属病院については第17回をご参照ください。

しかし、日本の戦況が怪しくなり始めたため、父親を残して台北から日本へ帰国しました。静岡には住友金属プロペラ工場と三菱重工業静岡発電機工場の二つの官設民営軍用機関連工場があり空襲の恐れがあるので、諏訪に疎開したそうですなのです。事実、1944年から終戦にかけて静岡空襲が計26回有りました。私の母親とその女子生徒は諏訪高女のクラスメートとして直ぐに親友になったそうです。

ちなみに女子生徒は、名門旧制台北州台北第一高等女学校(現台北市第一女子高級中学)に通学していたとのことです。日本統治時代の女子高等教育の拠点として1904年設立されました。旧台北州台北第一中学校と同様に、女子生徒の大半は日本国籍者でした。

⇒第26回をご参照ください。

(現在の名門台北市第一女子高級中学、通商”北一女”と呼ばれている。1923年関東大震災の教訓から耐震型校舎を建築。女子高ながらがっちりした外観構造の印象。)

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此処はかつて清朝統治時代に、学問堂である文廟(孔子廟)が有りました。道路を挟んで台北司法大廈(旧高等法院)の場所には武廟(関帝廟)が有りました。

文廟(孔子廟)と武廟(関帝廟については第8回をご参照ください。

 (台湾総統府土木局修繕課 井出薫の設計、1934年旧台北高等法院完成。第1回の中山堂も井出の設計。)

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戦後数年経って私の母親家族は東京へ出て、親友家族は静岡に帰郷しました。

私が小学校低学年のころですから、今から50年以上も前でしょうか、母親の親友の静岡の家に母親と夏休みで遊びに行った時の夕飯にとある一品が出ました。

 ソーメンでもうどんでも蕎麦でもなく炒めてある麺、でも焼きそばとも違うと子供ながらに思いました。それが焼きビーフン(炒米粉でした。何だか妙に印象に残りました。

(汁ビーフンもありますが、焼きビーフンの方が断然好きです。つみれ汁との相性は抜群。)

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 母親の親友は台北で暮らすうちに焼きビーフンの料理を覚えて日本でも家庭料理として作っていたわけです。この料理が私の中で台湾と結びつくのは相当に後になって、台湾ビジネスを始めた頃からのことで合点が行きました。

 『ビーフン(米粉)』は米作地帯である新竹市の名産です。インディカ種うるち米を精米して水に浸透させながら挽いてペースト状にします。それを濾過してでんぷん質を加熱しながら練った生地をところてんの様に小さい穴の開いた筒状の金型から押し出して紐状に形成します。

そのまま切断して棒にかけて乾燥させますが、新竹は台湾海峡からの強い風が吹き乾燥させるにのはもって来いらしいのです。元々は福建省辺りから伝わった料理で、水でもどしてから、具材と混ぜて炒めるのは実は少々面倒な料理だそうです。

 母親も数年前に亡くなり、親友であった女性もお元気で生きていれば88歳(米寿)になっているはずです。ご家族はいまでも焼きビーフン(炒米粉)料理を家庭の味として引き継いでいるでしょうねえ。