(第1回)台湾と日本との最初の歴史的接点(牡丹社事件)に関して

これから私は台湾の歴史、特に17世紀以降の明朝と清朝との関わり合い、そして明治維新後に初めての植民地としての統治時代とその発展と終焉を時代もトピックスもランダムに綴りたく思います。時として、台湾歴史から少々ずれることも有るかもしれませんが、歴史学者ではないので、あくまでも市井の語り部として台湾歴史紀行を語れたらと思います。

 

台湾と日本との歴史的な最初の接点を語る時、どうしても触れないといけないのが、所謂、牡丹社事件です。1871年台湾最南端屏東県牡丹郷で起こった事件ですが、『宮古島島民遭難事件』とも言われています。

屏東県の当時の地図)

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明治維新から明治新政府が樹立して間もない頃の事件ですが、事件の概要は、琉球王国所属の宮古島60数名の漁民が、琉球王国本島(現在の沖縄島)へ朝献の品々を献上した後、本島から帰る途中で台風に遭遇して台湾南部に漂流した時に言葉が通じず54名が台湾先住民族(原住民族)に斬首されたという事件です。

琉球王国は中国大陸清朝にも江戸時代には薩摩藩どちらにも従属していた武力を持たない国家でした。明治時代になり、明治新政府1871年に発令した『廃藩置県』により、薩摩藩を廃藩して鹿児島県に置県するのですが、この鹿児島県に琉球王国を取り込みたいと考えていた時期でもありました。

一方、その頃の清朝は台湾南部(現在の台南)を支配していた鄭成功の子孫(鄭氏王国)を駆逐してから事件は数年後の出来事で、台湾その一帯の共通言語も文字も理解しない生蕃と呼ばれていた先住民族(原住民)が住んでいました。

現在台湾政府認定している先住民族(原住民)はアミ族タイヤル族タロコ族、セデック族など16種族が存在していますが、牡丹郷にはパイワン族が居ました。清朝としてあ、あくまでも福建省の一地域として『福建省台湾府』と呼んでおり、これら先住民族との抗争やコレラマラリアなどの風土病・伝染病などの影響も有って、積極的な植民地支配や殖産興業をこの時点ではしていませんでした。

そのため、清朝政府からは男性役人のみの派遣を許可しており、台湾渡航をきつく禁止していました。やがて、砂糖・樟脳・木材・茶・穀物を扱う一括千金を狙った福建省漢人商人が移民してきましたが、それでも先住民族とは明確に区分されて居住していました。これら漢人商人のお話はいずれこのブログで扱う予定です。

そのような歴史的状況の中で、明治新政府はこの事件の交渉役として外務卿副島種臣清朝首都北京に派遣して討伐のお伺いを立てました。明治新政府としては、この事件の落とし前をつけるためです。

そして、この交渉時に清朝役人から化外の地と言う言葉を引き出します。『化外の民』とも言われますが、これは外交上で非常に重要な意味を持つ言葉です。清朝にとって、台湾島(民)は領域的支配も文化的支配も政治的支配も遠く及ばない領地』と言う意味となるからです。

つまり、簡単に言えば、台湾島清朝領土ではありませんので、どうぞお好きに先住民族パイワン族)を成敗してくださいと言う意味です。これで、明治新政府清朝政府自身の代わりに先住民族パイワン族)を成敗すると言う大義名分を得られた訳です。

1873年、陸軍卿山縣有朋が発案した徴兵令(国民皆兵制度)によって、西郷どんの舎弟、陸軍中将西郷従道の指揮の下、1874年3600名の明治新政府軍を台湾牡丹郷へ派遣します。明治新政府にとっては、初の海外軍隊派遣となりました。

(明治政府軍に対して降伏・恭順・好意を示した旗、漢人や原住民族の部落や集落の入り口に掲げられた実際の旗)

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近代兵器と派遣数ではパイワン族を圧倒しましたが、亜熱帯地方独特のコレラマラリヤなど風土病・伝染病と闘うことになりました。実際に戦闘で命を落とした数よりもはるかに多い五百名以上が命を落とす犠牲も払いました。まるで新型コロナウィルスのようで自然の力には勝てませんね。

ところで、私は実際に事件が起きた屏东県牡丹郷へ行きました。先ず『高士神社』跡を拝見しましたが、小高い山の頂上で、当日は天気も良くて遠くに台湾海峡が望める非常に綺麗な場所でした。

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此処は元々山族である少数民族の山岳宗教地だったのだと推測します。やがて日本統治時代以降、神社仏閣が融合された場所だと考えます。昔のままの祠もガラスの家に納められていて保存状態も良好でした。

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ここの鳥居は2016年に日本人からの寄付もあり再建奉納されたものですが、台湾で生活していると、日本統治時代の遺跡や史跡の建築物が多数残されており、日本人にとってはありがたいことです。私は今後、このブログを通じて順次ご紹介していきたく思います。

次に、高士神社跡から車で15分ぐらいの場所で、『石門古戦場跡』も拝見しました。現在では登山ハイキングコースにもなっている牧歌的な場所でしたが、そこから見た山々の風景は、当時とさほど変わりがないはずです。

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私は以前に『セデックバレー』と言う台湾映画を見たことがあります。1930年日本が台湾島を統治支配してから35年過ぎたころに発生した霧社事件(現在の南投県仁愛郷)を題材に扱った映画でした。

(2020年夏、合歓山へ登山したおり、霧社事件が起きた場所へ立ち寄ってみた。小さな汚れた看板だけが目印。1930年10月25日朝8時、日本人駐在所警察官・家族・小学生・教師及び現地先住民などが集まる運動会でセデック族により134名の殺害が発生。)

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映画に出てくる生蕃セデック族が森林の山中を縦横無尽に走り回る姿が描かれていました。きっとあのように、ゲリラ戦が繰り広げられたのだと想像します。台湾先住民族による最大規模の抗日蜂起事件を描いた映画でしたが、日本統治後期になっても、一部先住民族の抗日運動に台湾総督府(日本側の統治官庁名称)は悩まされ続けるのです。

(惨劇の有った場所だった小学校は、現在では台湾電力事務所となっていた。事件後、恐らく日本の電力会社事務所となり、戦後に台電に接収されたものと思われる。日本家屋のみ残存していた、残念ながら校庭の痕跡は確認できず。)

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先住民族の中にはその特殊な身体運動能力の高さやを買われて、日本統治時代には日本兵高砂義勇兵)として先の戦争に駆り出されます。約4000名もの先住民族が出兵しましたが、その多くが戦場で命を落としたのも悲しい事実です。

最後に、牡丹社事件で犠牲になった宮古島島民54名のお墓をお参りしました。幹線道路からちょっと外れた見落としそうな場所でした。古びた鳥居があり、盛り土されたお墓でした。『大日本琉球藩民54名墓』と記載されているのがはっきりと読み取れました。犠牲になった方々の出身地と名前も彫られていました。揮毫は明治新政府軍を率いて行った西郷従道陸軍中将だそうです。

ちなみに、事件が発生した当時の琉球王国国民とは揮毫せず、翌年1872年に鹿児島県付傭国琉球藩(実際には明治政府直轄支配下)として琉球藩民の揮毫しているところが明治新政府の並々ならぬ意欲が感じられます。(1879年沖縄県として置県独立)

 

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この事件からちょうど20年後、日本軍隊と清朝軍隊は武力衝突します。所謂、日清戦争(中国語で甲午戦争)が勃発し日本国は眠れる獅子と言われた清国に勝利します。その結果、下関条約で正式に台湾島と澎湖島を統治することになります。このお話もいずれこのブログで取り上げる予定です。

いずれにしても『牡丹社事件』が日本と台湾との歴史的な最初の接点であり、近代日本が海外出兵を実行した最初の史実なのです。

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