(第3回)台湾とオランダ東インド会社及び中国明朝(鄭成功)との関わりについて

第3回は、台湾にオランダ及び中国明朝がどの様に関わっていたかについてです。

先ず、中国明朝に関してですが、明朝は14世紀モンゴル民族の元朝を大都(北京)から追いやり、17世紀にかけて栄えた漢民族の王朝です。この明朝末期に漢民族でありながら母親が日本人で、台湾では民族英雄と呼ばれた人がいました。

f:id:tsuyopytw:20200717143409j:plain

その人は1624年に長崎県平戸に生まれます。名前を鄭成功と言います。父親は福建省泉州府出身『鄭芝龍』、母親は肥前国平戸藩(現在長崎県平戸市藩士の娘『田川マツ』、鄭成功はその間に生まれました。

鄭芝龍は、福建省の闽南语(みんなんご)は勿論、中国語、ポルトガル語オランダ語スペイン語、そして日本語にも長けた人物でした。福建省厦門島・鼓浪屿(コロンス島)や台湾金門島を根拠地に武力を持った海賊で、東シナ海南シナ海一帯での密貿易で成り上がり、財力にモノを言わせて明朝に取り入った商人だったのです。

一方17世紀中期江戸幕府は、第三代将軍徳川家光の時代でした。その当時、江戸幕府キリシタン対策に苦慮していました。その際たる事件が、1637年天草四郎時貞が島原(現在長崎県南島原市)で起こした島原の乱です。

島原領民への取り立てに対する一揆でしたが、ポルトガルより持ち込まれたキリスト教の下に集結したキリシタン教徒が組織化されて暴徒化したものです。その為、江戸幕府は直ちに鎮圧すると共に、キリスト教布教禁止のために鎖国をしました。

鎖国政策とは、海外交易と海外渡航を禁止するということです。1859年開国するまで、この鎖国徳川幕府の基本政策でした。しかし、鎖国でありながらも海外交易を続けられたのが、オランダと中国明朝及び清朝でした。

正確には、薩摩藩琉球王国と、松前藩アイヌと、対馬藩は韓国李朝と独自に密貿易をしていましたがこれらは除外とします。

オランダについては、実際には東インド会社を通じての交易となります。そして、オランダ東インド会社と中国明朝の交易を司る商館が長崎県平戸に有ったのです。平戸の商館に出入りしていた商人の鄭芝龍が平戸で田川マツと出会い、そして鄭成功が生まれたと言うことです。

オランダ東インド会社の商館は、やがて平戸から幕府直轄領『出島』へ移動となります。出島は元々ポルトガル人やスペイン人が居住していた場所ですが、鎖国になり彼らは強制退去され居なくなった場所にオランダ商館が移されたわけです。

ところでオランダ東インド会社とはどのような組織だったのでしょうか?彼らは商業活動だけではなく、海上運搬活動・軍隊派遣・植民地経営などの多岐の役割を担っていた集団でした。インドネシアジャワ島バタビヤ(現在首都ジャカルタ)に拠点を持っていました。

日本語で『こんぱんや』と呼ばれていましたが、これがカンパニーの語源で、世界最初の株式会社とも呼ばれています。資本金のもと幾名かの投資者と役員で構成されていました。

さてオランダ東インド会社が駐屯していた出島ですが、出島跡が史跡になっています。随分と以前ですが、見学したことがあります。現在では埋め立て地となっていますが、当時は長崎港の先に扇型で造られた人口島でした。

f:id:tsuyopytw:20200717143116j:plain

1.5hとそれほど広くはありません。一本の橋で出島と陸地が繋がっていて居住地を兼ねた商館があり、数十名がそこに寝起きして生活をしていました。オランダ人の出島から長崎市内外出と日本人の出島への出入りは厳禁だったそうです。その為、双方の業務の遣り取りは、幕府直轄の長崎奉行所に一任されていました。

一方で明朝の商館は明朝時代はそのまま平戸でした。明朝時代の長崎港に来航していたのは鄭芝龍の様な海賊商人のみで一般商人がまだそれほど多くなかったからです。ところが密貿易が余りに増えたので、1688年長崎奉行所が取り締り強化のため、出島と同様に商館や明朝居住民は平戸から幕府直轄領『小島郷十善寺御薬園』へ移されました。

元々この場所は、イエズス会耶蘇会)が薬草園として使用していた場所で、明朝から持ち込まれた薬草も栽培していた施設でした。ちなみに、この薬草園は長崎市内各地へ変遷しますが、幕末期には『西山郷御薬園』として70種類以上の薬用植物が目録に記載されているそうです。

商館移設以降此処は『唐人屋敷』と呼ばれる様になりました。出島よりもずっと広く、9400坪2000名程度の収容能力は有ったそうです。塀と壁に囲まれた監視地域で出入りできたのは僧侶と遊女のみでしたが、明朝人はキリシタンとは無関係でしたので、徐々に一般商人も出入りが許されたそうです。そのため密貿易も横行したのです。

ところが、1859年鎖国から開国へ政策転換されて唐人屋敷は廃屋化します、更に火災で消滅します。後に此処の隣接地帯に新たにできたのが中華街になるわけです。

f:id:tsuyopytw:20200717143154j:plain

さて、明朝の海賊商人はどうやって来航していたのでしょう?唐船或いは帆船(ジャンク船)に乗船して江蘇省浙江省福建省から台南安南を経由地として、頻繁に長崎へ来港していました。鄭成功の父親鄭芝龍もその一人でした。

f:id:tsuyopytw:20200717143307j:plain

一方オランダ東インド会社は、東アジア貿易の拠点として最初にマカオを目指していたが、既に占領していたポルトガルに反抗、次に澎湖島を占領しようとしたが明朝より阻止されたのです。最終的に台湾島支配に方針を切り替えました。1624年台湾島台南安平を占領してゼーランディア城(安平古堡)を築城します。

福建省広東省から大勢の漢人を連れて使用人としてプランテーション(大規模農場)を進めます。そして1662年まで38年間オランダ東インド会社台湾島支配が続きます。17世紀中には辛料貿易が最盛期を迎えて、東アジア貿易もほぼ独占状態となるのです。

次回はオランダ東インド会社の凋落、及び、鄭氏王国の成立と消滅についてアップしたいと思います。