(第4回)オランダ東インド会社の凋落と鄭氏王国の成立と崩壊

第4回は、オランダ東インド会社(荷蘭福爾摩沙)の凋落と鄭氏王国の成立と崩壊に関してです。

前回にも触れました通り、1624年台湾島を支配したオランダは17世紀中頃までは福建省広東省から連れて来た漢人プランテーション(大規模農園)をさせて香辛料貿易も順調でした。プロビンシア城(赤崁楼)ゼーランディア城(熟蘭遮城)築城、1662年撤退まで37年間で13名もの行政長官を本国から派遣しました。

17世紀後半になると、オランダは欧州での海上覇権をかけてイギリス・フランス・ポルトガル・スペインと戦争に明け暮れる様になります。特に英蘭戦争(1652年~1674年)敗北がその後のオランダ国家財政を逼迫して、オランダ東インド会社経営を破綻させます。そしてイギリスに東インド会社の株式譲渡するまでになります。イギリス東インド会社に改組されるのです。

オランダ東インド会社の正式名称『連合東インド会社Verenigde Oost-Indische Compagnie)』で、帆船に掲げられている国旗でV字が入れられているのが印象的。)

f:id:tsuyopytw:20200717161142j:plain

ちなみに、オランダの凋落の始まりを象徴する事件ですが、東インド会社を手放したオランダですが、長崎出島に自国民社員を取り残したまま、忘れられたのか迎えに来なかったらしいです。寂しい限りです。

その頃、明朝や鄭成功はどうしていたのでしょう?

時代を英蘭戦争の少し前に戻します。鄭成功は父親鄭芝龍と共に金門島厦門島を拠点に海賊商人として成長しますが、1644年李自成の乱により明朝が突如滅亡します。

李自成は農民反乱指導者なのですが、明朝首都北京を陥落させて自ら皇帝として順王朝を建国します。しかし、それも僅か40日間で清朝に滅ぼされ反乱は収まります。鄭芝龍は新興王朝で異民族の満州族女真族清朝側に寝返ります。

一方の息子鄭成功は明朝遺臣として、『反清復明』のスローガンを掲げて明朝再建の機会を伺います。そしてその活動拠点を台湾島に定めます。この時点で完全に親子断絶状態となるわけです。

これは、後にこのブログでも取り上げますが、蒋介石の国民党軍が毛沢東共産党軍との国共内戦に敗れて、台湾から大陸反抗を試みる状況と重なります。

さて鄭成功ですが、1661年2万人とも3万人とも言われる軍隊(海賊)を200艘から300艘の船団で福建省厦門島からオランダ軍が占領している台湾島台南へ移動させます。海上でオランダ戦艦との会戦になりますが、鄭成功はオランダ艦隊を撃滅します。

そして、鄭成功軍は台南汕尾上陸を試みます。これに関しては面白い逸話が伝わっています。浅瀬の海で船が暗礁に乗り上げそうになり上陸が困難だったそうです。そこで、鄭成功海の神様(媽祖様)に祈ったところ、浅瀬だった海がみるみるうちに水かさが増して満潮無事に上陸できたそうです。

(”民族英雄"と讃えられる鄭成功が上陸した地点にて)

f:id:tsuyopytw:20200717143409j:plain

鄭成功は上陸感謝と戦勝祈願して、媽祖廟『鹿耳門天后公』を建立したということです。この逸話には更に続きが有ります。実はこの鹿耳門天后公から川を渡った5kmほど北にもう一つの媽祖廟『土城正統鹿耳門天后公』があります。

規模からすると土城正統鹿耳門天后公のほうがはるかに大きいです。台湾海峡に流れ込む川の南北に跨ってどちらも鄭成功建立の正統性を名乗っているところが面白いです。

(鹿耳門天后公もこの壮麗さと規模、台北でもあまり見掛けない。)

f:id:tsuyopytw:20200717161345j:plain

その後、オランダ軍(約1200名)はゼーランディア城(熟蘭遮城)に籠城することになります。バタビア拠点からの援助軍を待つこと9か月間、遂に降参してゼーランディア城(熟蘭遮城)を無血開城で明け渡すことになります。鄭成功は無抵抗のオランダ軍を追撃することもなく逃がしたとのことです。

鄭成功は、この城を安平城と改名して『鄭氏王国』を成立させることになるわけです。そしてこの王国から明朝復活を目指す予定でしたが、王国成立の翌年に鄭成功は急死します。マラリアによる熱病が死因とも言われています。

(鄭氏王国の国旗)

f:id:tsuyopytw:20200801101138j:plain

鄭成功亡き後の鄭氏王国は、息子鄭経が遺志を継ぐことになります。鄭経は清朝へ軍隊派遣するのですが、逆に反撃されます。弱体化した鄭氏王国ですが、孫代鄭克になり一族内乱も勃発します。

その当時の清朝は屈指の名君と言われた康熙帝の時代でした。鄭氏王国の弱体化に乗じて清朝軍隊が台湾島へ派遣されてあっけなく敗れます。鄭氏王国成立から僅か20年の短期間で滅びます。

(安平城内に建つ”国姓爺”と言われた鄭成功銅像と記念碑)

f:id:tsuyopytw:20200717161258j:plain

(ゼーランディア城(安平城)を取り囲む城壁跡)

f:id:tsuyopytw:20200801100917j:plain

今でもゼーランディア城には鄭成功銅像が建てられています。台湾では鄭成功『台湾開祖』と呼ばれています。後にブログする予定の孫文蒋介石と共に『三人国神』とまで言われています。やはり、外国勢力を台湾島から駆逐したのが歴史的に評価されているのでしょうか。