(第6回)台湾のお茶産業(烏龍茶)の歴史について

1860年北京条約により淡水が欧州列強国に開港されました。第5回ブログでご紹介しましたが、1867年英国は清朝からアントニー要塞(紅毛城)』を租借して領事館を設置しました。これにより英国から多くの商人が淡水付近に商館を建てます。そして今回は台湾の茶葉産業発展の歴史について書きたいと思います。これには英国の茶文化発展が大いに影響しているのです。

(現在では旧イギリス領事館は「紅毛城歴史博物館」として開放されています。領事館職員とその家族が、領事館横の芝生でテニスに興じる姿のセピア色の写真を拝見できます。台湾初のテニスされた場所とも言われています。)

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先ずイギリスのお茶文化の歴史について簡単に触れます。17世紀既にお茶を飲む習慣が上流社会にはあったポルトガルからキャサリ女王が英国へ嫁いだ時に、この健康習慣を英国に伝承したと言われています。

1773年ボストン茶会事件が当時イギリスの植民地だったアメリカで勃発します。本国イギリス東インド会社茶葉専売法令に対して、ボストンを中心としたマサチューセッツ(現マサチューセッツ州)植民地が反発します。

そもそも18世紀には、アメリカ植民地にも本国イギリス同様にお茶を飲む習慣が普及していました。ところが、東インド会社からアメリカ植民地へ輸入された茶葉に対して重税を掛けたため、イギリス植民地政策に不満を持つマサチューセッツ植民地人が輸入品の茶葉を海に投げ込むという事件を発生させたのです。この事件がきっかけでアメリカ独立戦争にまで発展します。

(イギリス東インド会社の茶葉の積み荷をアメリカ植民地の人々はインディアンの姿に化けて海に捨てた。この事件以降、アメリカではお茶を飲む習慣からコーヒーを飲む習慣に代わります。)

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19世紀ヴィクトリア女王の時代になると、所謂、嗜好品としてアフタヌーンティー文化』が上流社会のみならず一般市民にまで広く浸透します。英国は茶葉を中国大陸産(主に厦門産や福州産)から購入していたわけですが、世界的な茶葉需要が増えたことで中国産茶葉だけでは供給不足になります。

1867年寶順洋行を設立したスコットランド商人(John Doddジョン・ドッド)が淡水付近の気候が茶葉生育に適すると思いつき、茶葉ビジネスに目を付けたのです。福建省安渓県(鉄観音茶の産地)から数種類の苗木を移植してその中に最適種を発見しました。

スコットランド商人、ジョン・ドッド。1867年~1874年烏龍茶葉をアメリカとイギリス向けに販売して大成功を収めた。)

 

19世紀以前台湾島内には生茶(原生茶が生えていました。しかし、あくまでも夏バテ治療薬用として、漢人先住民族に栽培させていたものでした。嗜好品としての飲む習慣やお茶文化は存在していません。勿論、紅茶用茶葉も有りませんでした。

 ところが、ジョン・ドッドが植えた茶葉が『福爾摩沙烏龍茶(Formosa Tea)』として注目されるようになります。ジョン・ドッド自身『烏龍茶之父』と呼ばれ成功します。

彼は厦門府や福州府から熟練茶葉職人を呼び寄せて、艋舺に焙煎工場も立ち上げます。その結果、淡水だけではなく、台北周辺の新竹でも茶葉が栽培されて急速に烏龍茶茶畑が台湾島各地へ拡がりました。

茶葉は、主に北アメリカや英国向けに販売されて利益も高かったのです。穀物・樟脳・茶葉が三大産物となり清朝政府にとっては大きな経済効果となり大きな国家収入源を占めました。

茶葉の経済効果はインフラ整備にも影響を与えます。つまり茶葉を海外へ輸出する際に、出来るだけ新鮮な茶葉をスムーズ且つ大量輸送する必要から、基隆―台北―新竹までの鉄道敷設が必要となったわけです。

淡水河沿い上流の大稻埕には茶葉関係で英国資本の貿易会社が数社出来ました。德記洋行・怡和洋行・和記洋行がその代表格です。德記洋行は今なお現存している企業です。大稻埕には鉄道路線駅も存在したのですが、現在では痕跡は見られません。

(徳記洋行”台南支店”の前にて)

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一方、スコットランド商人(John Doddジョン・ドッド)が設立した寶順洋行や和記洋行で総支配人を勤めながら茶葉産業で巨財を成した台湾茶業之父(茶祖)』と言われた李春生福建省厦門出身)が存在しました。

 

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李春生は、茶葉産業で得た巨万の富を淡水防波堤建築・大稻埕市街地建設・基隆から新竹鉄道敷設に私財を投げうって台湾近代化のために尽力しました。キリスト教プロテスタント宗派)布教にも尽力しました。同時期に淡水で宣教士でありながら医療活動にも従事した馬偕(George Mackay)とも親交があったはずです。

イギリス資本の茶葉会社は現在ではほとんど存在しませんが、清朝統治時代からの台湾資本の茶葉会社が現在でも存在します。1883年創業『林華泰茶行』福建省漳州府出身の祖先が始めて、約140年経った現在でも重慶北路で営業しています。

実際に店舗に行きました。昔ながらの製造方法と焙煎機で仕上げています。お店には大きなドラム缶に色々な種類の茶葉が入っていて店内は茶葉の良い香りでした。今でも茶製造の伝統が受け継がれていることに感動します。

烏龍茶の製茶工程は、中国大陸のそれと違って茶葉発酵を加熱途中で止めるそうです。加熱後に茶葉を揉みこむことで茶葉が柔らかくなり形も丸みを帯びるのです。そうすると熱湯を入れたときに茶葉が開き香りも出るのだそうです。

(右から左へ読む昔ながらの看板も年期が入っている。茶行とは茶葉会社と言う意味。これだけでも時代を感じる。お店の数メートル手前から茶葉の香りが漂ってきます。)

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(この焙煎機は何十年稼働してきたのか!いまだに現役で活躍中です。)

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(昔ながらの方法で茶葉を丁寧に発酵と乾燥させています。)

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さて、最後に台湾烏龍茶に関して面白いエピソードをひとつご紹介します。季節は6月二十四節気芒種』と言われる頃ですが、その季節に小緑葉蝉(ウンカ)という昆虫が発生するそうです。大稻埕にある茶葉積み荷小屋の管理人の保管ミスで茶葉にこの昆虫が付いたそうです。

この昆虫は、茶葉の新芽を啄む際に唾液と一緒に内分泌酵素を吐き出すのですが、茶造り職人が内分泌物が付いた茶葉をそのまま焙煎したそうです。その結果、混合されて紅茶の味に近い甘い香りの烏龍茶が出来上がったそうです。

別名『虫食い茶』と呼ばれていますが、それを飲んだイギリス皇室が『The Tea of The Oriental Beauty』と表現したことから『東方美人』とも呼ばれており、今では日本でもお土産品として有名です。

ちなみに、私は林泰華茶行で『文山包種茶(烏龍茶の一種)』を量り売りで購入しています。冷やした状態がより甘みを感じられるので夏場の暑い日にはオススメです。

(茶葉の種類と等級により分類して大きなドラム缶に保管している。本来は小売店への卸が主体ですが、個人売りでもグラム単位で売ってくれるのが嬉しい。)

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 ちなみに、現在では高山烏龍茶が有名ですが、これは戦後に中華民国が斜陽になった茶葉産業の起死回生の茶葉として研究した成果なのです。