(第7回)中国清朝による台湾島支配について

今回は、鄭氏王国消滅後の清朝(大清帝国による台湾島支配の過程について書きたいと思います。1683年鄭氏王国は清朝により僅か23年間で消滅させられますが、中國歴代最高の名君と誉れ高い第3代皇帝康熙帝の計らいで台湾島から鄭一族とその家臣全員が中国大陸へ戻されます。

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鄭氏残党は中国大陸へ戻された第一の理由は、鄭一族は海賊商人の成り上がり者だったからです。清朝としては、台湾島を鄭氏残党の海賊商人に再び支配されることを恐れたからと言われています。ただでさえ、先住民族が蔓延っており更に面倒になるのを抑えたかったからです。

では清朝はどのように台湾島を支配したのか?清朝はあくまでも明朝の復活を目指す鄭氏王国を潰すことが目標でした。台湾島清朝支配期間は1683年から1895年日清戦争終結まで約210年間続きますが、実は19世紀後半になるまで地域的に制圧したのみで積極的な領有支配も植民地経営も進めたわけではないのです。

つまり、17世紀後期の時点では台湾島福建省の単なる一地域としか位置付けしていません。福建省台湾府』と呼んだのもそのような理由からです。具体的には、現在の高雄・台南・嘉義など極めて限られた地域を限定にして管轄、清朝役人のみを派遣することにしたわけです。

言うなれば、福建省の出先管理機関みたいなもので、清朝初期の頃は単なる領土の管理人として清朝役人が駐屯させるという役目です。積極的な植民地経営(殖産興業)とは言える対応ではありませんでした。

更に17世紀後期から18世紀頃には、清朝自国民の台湾島への移住と定住を厳しく抑制統制しています。特に清朝女性は渡航禁止でした。役人のみ男性限定で台湾島へ派遣していたのです。

何故、積極的ではなかったのでしょうか?理由としては、先住民族(原住民)や先住民同士との紛争、亜熱帯地域特有のマラリヤデング熱コレラ赤痢など風土病や伝染病の疫病問題も有り積極的な領土支配や植民地経営ができなかったのが現実でした。

清朝先住民族との関係が複雑だったわけで、清朝先住民族を『蕃人』と称し、『生蕃』『熟蕃』とに区別しました。清朝の統治下にあり徭役・納税義務の負担、清朝の法律が適用され、ある程度の中国文化を受容し漢人に近いものを熟蕃、統治外で中国文明を全く受容していないものを生蕃と呼びました。

1722年清朝により『蕃界』と呼ばれた漢人と生蕃間の境界線も制定されました。生活区分を明確に分けていたわけです。台湾南部に支配が限定されていますが、北部に支配が及ぶのは、経済上或いは防衛上で重要視されはじめた19世紀になってからです。特に台北の名前が歴史上登場するのは、1885年『福建台湾省台北府』と言われてからです。

19世紀頃になると、清朝からの一般人の渡航が禁止だったとは言え、穀物・茶葉・樟脳・砂糖などの交易で一攫千金を夢見て福建省広東省辺りから台湾島へ密航してやってきて密貿易をする漢民族が増えてくるのです。一代で巨万の財を成す漢人商人も出てきます。『大稻埕』『艋舺』『迪化街』などの老街(旧市街)はその時代にできた商業地域です。

⇒第5回ご参照ください。

そもそも清朝漢民族ではなく異民族(満州族或いは女真族)ですから、大多数を占めている漢民族を支配するほどの統治能力を持ち合わせていなかったのだと思います。

現実に19世紀に入ると、欧州列強諸国から中国大陸各地が侵略を受ける時代になり清朝は財政的にも、国力的にも徐々に衰退していきます。帝国主義、所謂、植民地主義のイギリス・フランス・ロシアがその筆頭格です。

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1840年阿片戦争や1858年アロー戦争(第二次阿片事件)で不正義な植民地獲得競争により中国大陸に領土を広げていったわけです。1858年天津条約締結、1860年北京条約締結による天津条約批准を経、香港(九龍半島南部の割譲)・南京・天津などの港湾が開港されます。台湾もこの煽りを受けて滬尾(淡水)・鶏籠(基隆)・打狗(高雄)・安平(台南)の港湾が開港することになり、順次に通商貿易機関・税関・領事館・商館なども設置されていきます。

開港することで欧州列強国からの圧力を受けて、清朝台湾島を防衛拠点・経済拠点として重要視するようになります。19世紀前半までは政治の中心地が南部(台南)でしたが、滬尾(淡水)開港以降、台北の役割が格段に上がります。

この段階で清朝台湾島における積極的な植民地経営をするようになったわけです。具体的には、電気・電信・鉄道開通(基隆―台北―新竹)など社会インフラ基盤を整備し始めました。商業関係で言えば、例えば茶葉・樟脳・砂糖・穀物増産で取引きが急増しま。

次回は、台北府城の成り立ちとその城壁の建設について書きたいと思います。