(第9回)清朝時代の台北府行政機関について
今回は、清朝時代の台北府行政機関について書きたいと思います。1684年鄭氏王国が崩壊して清朝が台湾島を支配した時点では、『福建省台湾府』と呼ばれていました。台湾島が福建省のひとつの行政管理地域に過ぎず、植民地支配政策として殖産興業もしない支配体制でした。
やがて1884年になると台湾は福建省から独立して『台湾省台北府』と呼ばれ清朝の中のひとつの省となります。更に1894年省都は台南府から台北府へ移ります。この頃になると台北府城内(正式には城中)の存在は、欧州列強国からの清朝役人及び居留民保護が目的でした。但し、実際に欧州列強国から首都北京の様に台北府が直接攻撃されたことはありませんでした。
⇒第8回ご参考ください。
同時に城内では清朝政府による『衙門』制度が引かれて、各行政ごとの役所が設置されました。衙門制度とは、中国清朝後期から始まった外交問題や貿易問題や鉄道敷設など大きな政策管轄するために設立された官庁機関制度のことです。総理衙門とも呼ばれた諸外国との窓口です。
1858年アロー戦争後、欧州諸国の各国公使機関が北京に駐在すると共に、行政機関としての交渉代表機関(窓口)が必要となりました。同様に、行政管理地域である台湾省でも欧州諸国との交渉機関、或いは、漢人居留民管理機関が必要となり衙門制度ができた訳です。具体的には、政治行政機関・文武教育機関・司祭宗教機関・税関機関・港湾機関・警備機関などの実務機関です。
(1887年設立された布政使衙門(別称:欽差行臺)、内政関連の最高機関)
台湾省最高行政機関である『布政使衙門(欽差行臺)』を中心に、『官署衙門』『台北府文廟』『台北府武廟』『明道書院』『台北府隍廟』『台北府衙門』『巡撫衙門』『淡水懸署』『天后宮』『台北府署』『臺北府考棚』などが存在しました。
清朝台北府機関 | |||||||
NO. | 衙門 | 機関区分 | 役割 | 場所 | 設立年 | 跡地 | 写真 |
1 | 布政使衙門(欽差行臺) | 政治行政機関 | 清朝統治下の台湾行政制度に於ける内政の台湾最高政府機関で中央官僚宿舎と迎賓館も併設。閩南式建築 | 延平南路 | 1886年 | 中山堂 | 門(台北植物園内) |
2 | 官署衙門 | 政治行政機関 | 布政使衙門(欽差行臺)の下部組織、各種行政内容により設置 | 延平南路 | 1886年 | ||
3 | 淡水懸署 | 警備・伝染防止機関 | 大陸からの海賊襲撃やマラリア・デング熱などの伝染病など水際防止のための役所 | 重慶南路一帯 | |||
4 | 台北府衙門 | 地方行政機関 | 淡水、新竹、宜蘭、基隆懸を管轄する福建台湾省下の役所 | 館前路一体 | 1885年 | 国立台湾博物館 | 狛犬 |
5 | 巡撫衙門(巡撫署) | 地方行政機関 | 清朝統治下の地方行政制度に於ける台北最高行政機関 | 延平南路 | 1887年 | 総督府 | 碑 |
6 | 協台衙門 | 地方行政機関 | 日治時代は民生部官舎として使用 | 中央図書館 | |||
5 | 文廟 | 宗教機関 | 儒学の神様孔子を祀っている孔子廟、毎年春秋2回に儀式を挙行する | 重慶南路 | 1879年 | 台北第一高等女学院 | 碑 |
6 | 武廟 | 宗教機関 | 武の神様の関羽・岳飛を祭っている寺院、文廟と同様に孔子廟を城内に移築したもの | 重慶南路 | 1879年 | 司法局、高等裁判所 | 写真 |
7 | 考棚(明道書院) | 教育機関 | 清王朝時代の「台北盆地五座書院」のひとつで、残りの4つは明志書院、樹人書院、登瀛書院、学海書院。科挙の試験会場 | 忠孝西路、中山南路 | 1879年 | 碑 | |
8 | 学海書院(文甲書院) | 教育機関 | 清王朝時代の「台北盆地五座書院」のひとつで、残りの4つは明志書院、樹人書院、登瀛書院、明道書院。書院建築。 | 環河南路 | 1843年 | 建物 | |
9 | 大天后宫 | 宗教司祭機関 | 公園路 | 1888·年 | 国立台湾博物館 | 基礎石 | |
10 | 城隍廟 | 宗教司祭機関 | 城隍神を祭祀する為の廟。都市の外周に作られる「城」(城壁)と「隍」(堀)に対する信仰で都市の守護神 | 延平南路 | 1881年 | 碑 | |
11 | 霞海城隍廟 | 宗教司祭機関 | 城隍神を祭祀する為の廟。都市の外周に作られる「城」(城壁)と「隍」(堀)に対する信仰で都市の守護神。現在は良縁と仕事運の神。 | 大稲堤 | 1856年 | 現存 | |
12 | 天后宮 | 宗教司祭機関 | 「西門町媽祖廟」主神には天上聖母媽祖が祀られている。清国時代には万華の龍山寺や祖師廟と並ぶ三大寺廟として数えられていた。台北天后宮の主神は媽祖で、弘法大師も祀られている。 | 萬華区成都路 | 1746年 | 建物 |
(台北府城内に有った各行政機関の位置を示しています。台北府の城壁と東西南北の門については第8回をご参考ください。)
残念ながらほぼ全てが日本統治直後に都市区画整理計画に基づいて撤去されて跡地のみで址碑が建てられています。例えば、現在の中山堂には『布政使衙門(欽差行臺)』が設置されていました。その痕跡の一部は台北植物園内へ移設されており拝見できます。
元々この植物園は、1896年に台湾総督府により創設された『台北苗圃』が前身で、食用或いは薬用の各種植物を採取・研究・栽培する拠点として活用された研究機関でした。何故植物園内にこの史跡が移設されたのか不明です。
艋舺(現萬華)(⇒第5回ご参考)にある1937年創設『学海書院(文甲書院)』、台北府城内(東門付近)にあった明道書院と同様に中国伝統的な教育機関。先生と生徒はこの書院の中で共に居住しながら、教学・祭祀・人格養成の教育をしていた場所。学校の前身とも言われています。
ところで、この衙門制度を台湾で確立させたのが『劉銘伝』です。彼は『台湾巡撫(最高地方統治長官)』です。ちなみに劉銘伝は優れた政治家であり軍人です。今後このブログでも登場する予定の『李鴻章』が軍事編成した『淮軍』所属でした。
安徽省合肥出身で所謂『洋務派』と言われた人物です。洋務派とは19世紀後半から末期的状況にあった清朝軍隊を西洋的に軍事化して近代国家を推進する派閥のことですが、清朝政府内部の旧態依然とした古い体制まで刷新する派閥ではありません。
1884年にベトナム宗主権を争った『清仏戦争』が勃発しますが、その際に台湾巡撫に任じられました。劉銘伝はフランス軍の基隆と淡水からの上陸作戦を幾度となく食い止めました。その為、冒頭で記載した通り、台北府城への侵入も無かったわけです。
このような状況下で劉銘伝は、防衛設備整備・軍備編成・インフラ整備して日本統治後の台湾発展の基礎を築きました。特にインフラ整備では、台湾島初の鉄道敷設(基隆-台北-新竹)、台湾省と福建省間の電信ケーブル敷設、郵政局・電報局・煤務(エネルギー)局・鉄路局などの設置が挙げられます。
⇒第5回ご参考ください。
但し劉銘伝の改革は、清朝末期の財政負担増の問題を考慮しないものでした。また、官僚腐敗や汚職も蔓延して民衆の反発を受けることにもなりました。一方でインフラ整備では、日本統治下には多くが企業民営化で推進され日本統治時代に引き継がれました。
なお、衙門制度は日本統治時代がなると完全廃止されます。清朝末期で台北府城も徐々に変わっていき、1904年には台北府城壁も完全撤去されます。城壁築城から僅か20年間の短命だったわけです。そして城内は清朝人から日本人中心の居留地と変わって地名や道路の呼び名も日本らしくなります。
そして、いよいよ50年間の日本統治時代の幕開けとなるわけです。