(第10回)日清戦争前後の大日本帝国と大清国及び李氏朝鮮との関係について

台湾島及び澎湖島の日本の統治時代を語る時にどうしても避けられないのが、日清戦争前後の大日本帝国・大清帝国李氏朝鮮との3国間の関係です。今回はこのことを書きたいと思います。

1894年黄海会戦・平壌陥落・遼東半島(旅順口)攻略で大日本帝国は大清帝国に連戦連勝の勝利で1895年日清戦争終結させました。その後の東アジアの状況を決め、日本にとっては最初の植民地となる台湾島と澎湖島を得たのが下関条約(馬関条約)』です。

大日本帝国全権大使伊藤博文内閣総理大臣)と大清帝国全権大使李鴻章(北洋大臣直隷総督)との間で締結された第一条にはどの様なことが規定されていたのかご存知でしょうか?

山口県下関市にあった料亭"春帆楼"での講和会議の風景画。当初は日本側は広島(大本営宇品)、清国側は長崎での開催を希望したが、清国側の全権委任状問題が発生して最終的に下関に決定した。)

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第一条には朝鮮の清朝からの独立承認に関して書かれています。

『(第一条)清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢物・献上・典礼等は永遠に廃止する。』

 

此処で言う朝鮮国とは現在の朝鮮と韓国を含んだ朝鮮半島に存在した統一王朝李氏朝鮮(1392年~1897年)』のことを指します。第一条には、台湾島や澎湖島のことでもなく、勝利した賠償金に関することでもありません。李氏朝鮮の清国からの独立承認に関して書かれています。

 

そして条約第二条及び第三条はこのような内容となります。

 『(第二条、第三条)清国は遼東半島、台湾諸島、澎湖諸島など付属諸島嶼の主権ならびに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を永遠に日本に割与する。』

 

当時、大日本帝国陸軍の意向としては遼東半島(旅順口)と大連港割譲、海軍の意向としては台湾島と澎湖島割譲でした。既に遼東半島は攻略していましたが、台湾島及び澎湖島における実行支配はされていなかったため、占領状態を作らなければいけないことになりました。日清戦争終結前には実質的に半占領状態なのでした。

遼東半島三国干渉ロシア帝国ドイツ帝国フランス帝国)により清国へ返還されることになります(遼東還付条約)。

日清戦争時における遼東半島の攻略は相応の犠牲を出したものの、特別大きな損害無く攻略できたために、のちの日露戦争時における遼東半島の激戦では、陸軍も安易に考えてしまったふしが有ります。

 

また賠償金については、第四条に記載されています。7か年賦賠賠償金(2億両)と遼東半島返還代償金(3000万両)を加算すると、当時の金額で3億6千万円相当でした。

当時の年間国家予算(約1億円弱)でしたので、3倍以上(約4年間分)となります。なお、賠償金+代償金の85%を軍事拡張費用、残りを1897年官営八幡製鐵所の建設資金、皇室費用、金本位制移行費用に充てたとのことです。

 

(明治政府の殖産興業のもとで初の官営製鉄所、日露戦争第一次世界大戦に向けて製鉄需要が急増した。)

 

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さて、日清戦争直前の朝鮮半島における状況です。

日清戦争の根本原因は当時に李氏朝鮮の国体の有り方であり、1637年以来、李朝朝鮮は清朝宗主国だったことに起因するわけです。それは李氏朝鮮清朝の臣従属国を意味します。

李氏朝鮮は、清朝の臣従属国(つまり鎖国状態)であることに対して絶えず国内が開化派(独立国として自ら近代化を進める派閥)と旧守派(清国庇護のもと国を守る派閥)との鬩ぎあいの歴史と言っても過言ではありません。そして開化派には親日派有り、ロシア派有りと更に状況を複雑化していました。

そして、日清戦争直前はこの開化派(独立派)と旧守派(事大党)が起こす事件の繰り返しでした。例えば、1884年『甲申事変』は開化派が起こした政権奪取のクーデタで日本も関与していると言われています。清国と李朝保守派により失敗します。翌年、伊藤博文李鴻章との間で天津条約が交わされて、朝鮮出兵の際の取り決めがなされました。

更に、1894年東学党の乱(甲午農民戦争)』が発生します。保守派による高い納税と圧政打破、封建的な階級社会否定、そして日本人追放を目指した東学党儒教・仏教・道教を合わせた宗教団体、キリスト教の西学との対意)が起こした反乱で全国に拡大して勢力を強めます。

 

大日本帝国と大清帝国双方は天津条約に基づいて、首都漢城(ソウル)へ出兵します。李氏朝鮮国内ではこれに乗じて、改革派が盛り返すことになります。最終的には、東学党の乱を収束させると言う名目で日清双方が朝鮮半島から兵を引かなかったことが日清戦争に繋がります。

 (日本と清国のどちらが李氏朝鮮を釣り上げる(植民地化する)かをロシアも虎視眈々と狙っている当時の風刺画。)

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日本の立場から言えば、ロシアと清国との国境間での紛争や領土侵略もさることながら、将来的な朝鮮半島へのロシア南下も危惧していました。そのためには、隣国である李氏朝鮮には大日本帝国と同様に『殖産興業』『富国強兵』をスローガンに立憲君主制の下で早く近代国家を建設して貰いたいとの理念でした。

日清戦争では日本勝利により李氏朝鮮を独立させ朝鮮における宗主権を清国に放棄させることに成功しました。台湾島や澎湖島とは違い明治政府としては、日清戦争開戦当初から李氏朝鮮の植民地化を目指したわけではなく、あくまでも自主独立が目的でした。

 

当時の首相伊藤博文帝国主義者ではなかったと思います。日清と日露戦争を経験していましたから、国家間での戦争は双方に軋轢を生み外交重視が必要なことは十分に理解していました。日露戦争開戦直前まで回避を模索していたほどです。

1905年首相桂太郎と外相小村寿太郎大韓帝国(1897年~1910年)を保護国として、元老(公爵)伊藤は初代統監に就任します。しかし数年後、既に朝鮮総監を辞任して枢密院議長であった頃、1909年10月寒くなり始めた哈爾濱(ハルピン)駅構内で朝鮮民主主義活動家(安重根)に暗殺されます。

(哈爾濱(ハルピン)駅構内で暗殺事件直前、左手から二人目の白い髭でシルクハットを取って挨拶しようとしているのが伊藤博文。)

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(単独犯人とされる安重根、複数犯説もあり。1910年死刑執行。)

 

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時代的にはまだロシア管轄だった哈爾濱(ハルピン)駅に停車中の列車の中で満州・朝鮮についてロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと意見交換する予定でした。伊藤が暗殺されたことで、陸軍軍部を中心に日韓併合へと流れが大きく傾いてしまいます。

伊藤としては、韓国保護国化も大日本帝国がサポートして韓国が国力を付けるまでの暫定的な考えだったはずです。気持ちとしては、後藤新平を中心にこの時期やっと軌道に乗ってきた台湾統治を模範に近代的な国家造りを目指していたのだと思うのです。

歴史は、伊藤暗殺により結果的に日韓併合へと舵を切りました。この辺りの統治の違いが、後々の台湾と韓国との親日感の違いに影響してくるのだと思います。誠に残念なことです。