(第11回)三国干渉から明治政府軍の台北府城入城まで

今回は、前回の下関条約締結以降、三国干渉と明治政府軍の台北府城入城について書きたいと思います。

下関条約第二条と第三条で台湾島・澎湖島・遼東半島(旅順口)の日本への割譲が決められたものの、交渉途中で欧州列強諸国からは様々な干渉がありました。日本全権大使(伊藤博文陸奥宗光)は清朝全権大使(李鴻章)との交渉を急ぎました。

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1945年4月条約締結調印後、明治天皇の批准を得て5月早々には批准書交換がされたのも列強諸国からの干渉を避ける理由からでした。ところが、批准書交換から数日後、ロシア・フランス・ドイツの3か国の在日公使が外務省を訪問します。訪問目的は次の要件でした。

『日本国の遼東半島割譲は、清国首都北京の安全を脅かすのみならず、李氏朝鮮の独立国家としての存在を危うくする原因となるものである。』

そもそも、ロシアは朝鮮半島から南下を目指しており、フランスとドイツを誘い込んでの干渉でした。外務大臣陸奥宗光はこの干渉に断固反対するものの、総理大臣伊藤博文清朝の批准書不成立と欧州列強諸国との外交バランスを危惧していました。

所謂、三国干渉の結果、旅順口も含む遼東半島を返還することに同意した上で、賠償金3000万両(約4700億円)の支払いも含めて遼東半島還付条約』を1895年11月に別途調印することとなったわけです。

ちなみに、その後のロシアは遼東半島最先端(旅順口)を、ドイツは山東半島膠州湾(青島)を、フランスは広州湾を夫々租借地として清国から獲得します。当時の日本と列強諸国との国力差から生まれたパワーゲームでした。

10年後の1904年ロシアとの日露戦争において、この旅順口攻略(203高地に苦労することになります。私はサラリーマンの北京駐在時代、大連出張時に旅順港203高地を訪れた記憶が有ります。写真が手元に残っていないのが残念ですが、激戦地跡の大砲と堡塁を観た記憶があります。

 

さて大日本帝国は、1895年年5月に近衛師団師団長として北白川宮能久親王(しらかわのみや よしひさしんのう)と初代台湾総督に任じられた樺山資紀(かばやますけのり)が台湾征伐(台湾平定作戦)が決定されて台湾島に出征します。

 

(台湾初代総督樺山資紀、西郷や大久保と同郷の薩摩藩鍛治屋町出身。この鍛冶屋町からは明治維新期から日露戦争までの歴史上の人物を多数輩出しています。)

 

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一方、台湾島征伐される側(台北府の残留大清帝国漢人軍)には、故意に下関条約の交渉過程や台湾割譲の詳細情報が一切伝えられない状況でした。李鴻章は欧州列強諸国からの干渉の情報は入手していて、いずれは台湾島も澎湖島も遼東半島と同様に返還されるチャンスがあると認識していたかもしれません。

台湾島台北府城内においては、台湾島と澎湖島が割譲されるとの情報を入手した段階で、大清帝国から見放されたものと受け取りました。そのため台北府城に残留居住する漢人役人と清朝残軍で独立国を樹立する運動が起きます。清朝から派遣されていた台湾巡撫唐景崧台湾民主国樹立と初代総統就任を宣言します。

台湾民主国の国旗と国印)

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しかし、台湾民主国内部でもなかなかまとまらず、唐景崧は淡水から厦門へ脱出し、次に劉永が第二代総統に就任しましたが、最終的には6月日本軍が台北府城北門から無血入城を果たします。初代総督樺山資紀は、台湾総督府を暫定的に旧布政使衙門(欽差行臺)に置きます。

無血入城に際しては、のちに日本の台湾統治に積極的に協力した御用商人と呼ばれた辜顕荣が居ます。後藤新平(民生部長官)の盟友であり、後に樟脳・煙草・阿片の販売特権を得ました。この辜顕荣の長男辜振甫は 、日本敗戦直後に『台湾独立計画』を画策して、当局に逮捕されて禁固2年2か月の判決を受けます。歴史はめぐるわけです。

さてその後、台南や各地で乙未戦争(いつびせんそう)を繰り広げますが、11月樺山資紀総督は全島平定宣言をして終結します。台湾民主国も僅か5か月間で崩壊します。

 

ところで、全島平定直前の10月に近衛師団長として出兵していた北白川宮能久親王嘉義にてマラリヤに罹り、皇族として初めて外地で殉職しています(享年48歳)。最期を看取ったのが軍医として従軍していた森鴎外(文豪)でした。神社奉斎の世論の高まりにより、殉職地台南には台南神社(後に廃社)が建立されました。

(左側二人目が北白川宮能久親王

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日本統治時代後期(日中戦争の全面化以降)に皇民化運動(皇族への忠誠と日本人同化)が台湾一般市民に対して強要されます。各地に建立された200余りの神社はその役目も果たしたわけです。戦後は台北台湾神社(現圆山饭店)の様にその多くが廃社されて台湾人忠烈祠として再建されたものが多いのです。阿里山の檜木を使用した当時のままの姿を残した桃園神社はその代表です。

 (桃園市にある桃園神社、日本によくある神社の風景)

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いよいよ台湾総督府としての植民地支配(統治時代)を迎えることになります。次回からはその内容について書いていきたいと思います。

~ 続く ~