(第14回)台湾の糖業について

嘗て李登輝総統は「台湾は糖業と米作で稼いだ外貨で工業化させて貰った。」と述べたそうです。少々大袈裟かもしれませんが、それほど糖業は一大産業であったことに間違いはありません。今回は台湾の糖業について書きたいと思います。

 

民生局長官後藤新平は、農業専門家として同郷岩手県盛岡出身の新渡戸稲造を1901年台湾総督府民生局殖産課に2年掛りで招聘します。招聘するのにこれほど時間を要したのは新渡戸の身体があまり丈夫ではなかったので、新渡戸自身が固辞していたためです。

 

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新渡戸は『Boys Be Ambitious』で有名なクラーク博士が教鞭を取った札幌農学校(現北海道大学農学部)第二期生です。烏頭山水庫(ダム)建設した八田與一の恩師広井勇(港湾工学の父)は新渡戸と同期となります。クラーク博士は、この時期既に帰国していますので、直接薫陶を受けたわけではありませんが、キリスト教に対して強い影響を受け洗礼も受けます。のちにこの関係でアメリカ人女性と結婚します。

 

台湾総督府殖産課の仕事は、農業全般に関わります。当時は農民・農地・農産物の発展により国家の財政を健全化することを農政学(現在、農業経済学)と言いました。つまり、商工業の発展のみならず、農業の発展が無くしては国家の健全な財政的発展は成り立たないと言う学問ですが、新渡戸はこのような信念の持主でした。

 

新渡戸の最大の貢献は、殖産局長時代(1901年~1903年)茎の細い在来種(野生種)のサトウキビ(甘蔗)研究を基に、台湾の風土に即した品種改良・栽培方法・市場開拓の3方面に亘る『糖業改良意見書』を纏めて、児玉総督と後藤民生局長に提案した事です。

(甘蔗は意外に背丈が高いのでびっくり、台北製糖工場跡地にて)

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この意見書が台湾における糖業の行く末を決定し発展の礎になりました。糖業は樟脳・塩・煙草・酒の様に国家管轄の専売品とせず、民間企業の活力により産業としたのです。そして、その貢献により『砂糖之父』とまで称されるようになったのです。

⇒専売に関しては、第24回をご参考ください。

 

台湾総督府も糖業に力を入れて、1902年『台湾糖業奨励規則』を公布しました。これによると、サトウキビ(甘蔗)の耕作、或いは、砂糖の製造に従事する者には、甘蔗苗費用・肥料・開墾費用・灌漑費用・排水費用・政党機械器具費用を奨励金(補助金)を交付し、無償で貸し付けると言う規則でした。そのために、以下の多くの民間企業や財閥が糖業に参入したのです。

台南県橋仔頭に最初の新式機械製糖工場を建設し、1902年1月操業開始した台湾製糖(株)橋仔頭廠(工場)を始めとして、鹽水港精糖(株)1903年設立)・明治製糖(株)1906年設立)・大日本精糖(株)1906年台湾進出)4大製糖会社が民間企業として次々と設立されました。なお、戦後、これら4社は台湾糖業股份有限公司(通称台糖)に接収統合されます。

台湾製糖橋仔頭工場、煙突の煙が戦時中に標的となったらしい)

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従来サトウキビ(甘蔗)の収穫までは台湾、そして日本の内地工場へ送り精糖していました。ところが、台湾総督府の糖業推進と4社工場設立により日本内地工場と台湾内工場の双方で精糖・販売まで出来る様になりました。

また収穫時期の異なる品種を順繰りに栽培することで1年間絶え間なく収穫ができるようになりました。その結果、最盛期には4社で年間160万トンのサトウキビ処理して外貨獲得の8割にも達したのです。

 

一方で産業振興の柱として糖業と米作を奨励したことにより、米作と蔗作との兼ね合いで、水田稲作農家と蔗作農家とが農地取り合い問題(米糖相克)が発生します。

⇒稲作(蓬莱米)に関するブログは、第15回をご参考ください。

 

さて収穫したサトウキビ(甘蔗)の工場への搬入は、1907年まで何と水牛で運んでいました。サトウキビ収穫量も爆発的に増大したのと、効率を上げるためにサトウキビ専用の鉄道路線台湾糖業鉄道が敷設されます。

 

阿里山森林鉄道の様に蒸気機関車は使用しませんが、線路幅が762mmと狭い軽便鉄道ディーゼル機関車です。各製糖会社が独自に路線を敷設していました。台湾製糖橋仔頭廠(工場)で使用されていたサトウキビ列車は、橋仔頭駅から高雄港、或いは台南港へ繋がっており輸出に便利でした。

(糖業専用とは言え、工場従業員や付近住人も乗車させていました。)

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サトウキビ工場や糖業鉄道は、1999年まで稼働していた台糖橋頭廠跡地にできた台湾糖業博物館高雄市橋頭)で見学することが可能です。

(博物館というよりも、製鉄工場跡のような印象を受けます。)

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サトウキビ収穫以降、切断⇒圧搾(5回)⇒加熱⇒濾過⇒洗浄⇒蒸気⇒結晶⇒精製⇒乾燥までの全工程機械化された工場が2棟ありました。各工程の装置が昔のままに設置されています。当時は最先端工場で毎日200トンものサトウキビを処理できる容量だったそうです。

(写真は加熱工程の装置、その後、濾過工程へ)

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内地や台北総督府からも幹部が見学に来ていたようです。工場来社履歴を見ると後藤新平の名前があり、工場設立時期には何回も訪れていることが分かります。それだけ総督府として重要視していたのも分ります。

工場跡地を見学したこの日は暑い日でしたので、工場内を回るだけでも大変でした。それでも、往時の雰囲気に触れることができ時間が停止している感じでした。製糖工場以外にも、コロニアル風の事務所棟・日本家屋の工場長と副工場長宿舎、そして、日本人技術者と従業員の日々安寧を祈るための観音様などがありました。

 (ベトナムで見るような事務所棟)

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(工場長社宅、副工場長社宅を拝見できます。どちらも典型的な日本家屋。)

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観音様は初代社長鈴木藤三郎が建立したものです。奈良の薬師如来菩薩観音を真似て作らせたそうです。工場での安全を願い災いが起きない様に祈願したのでしょうか。

(何故か真っ黒な観音様)

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さて最後に余談ですが、新渡戸は身体が弱かったのが招聘に時間が掛かった理由と書きましたが、台湾総督府雇用条件のひとつとして『毎日昼寝一時間』が赴任条件だったらしいです。

台湾から帰国後は、1918年東京女子大学初代学長など女子教育にも尽力、これにより日本銀行券5000円紙幣の肖像にもなりました。1920年得意の英語を生かして国際連盟事務次官も勤めました。江戸―明治―大正―昭和(1933年)と生き抜いた人物でした(享年72歳)。