(第19回)台湾統治時代に於ける警察組織と民主化運動について

今回は台湾における日本統治時代の警察組織と台湾人の民族自決主義に関連して書きたいと思います。

以前ブログにも書きましたが、台湾総督府における台湾統治時代(約50年間)の歴史で、合計19名の総督が誕生しました。10名が軍官人(陸軍:7名、海軍:3名)、9名が文官人となります。

特に初代(1895年)から第7代(1919年)までは、先住民族との争いを無くして日本人を受け入れさせて融和を図ることが先決でした。時に飴と鞭で軍事的行動も不可欠でした。そのため軍官人が総督になる必要がありました。

日本人を受け入れられる様になると、次に天皇陛下の皇民として、台湾人に対して日本語・道徳・文化・風習を本土と同様に徹底教育する(内地延長主義)統治段階となります。つまり、台湾人を日本国民として教育すると言う同化政策を推進させます。

これを進めたのが第8代文官総督田健次郎です。台湾人と日本人との差別を減らすために、地方自治拡大の総督府評議会設置、日台共学制度、共婚法公布、日本語学習などが同化政策(台湾人の日本人化)です。但し、植民地政策として完全な差別撤廃ではありません。

一方でこれを強力に推進するためには、軍隊よりも便利な組織が必要となります。それが、警察組織です。1895年日本が台湾統治を始めた直後に台湾総督府警保課なる部門が設置されています。翌年には各県庁に警察課ができ、その下の各地方には警察署(或いは派出所)を置きました。1919年には台湾総督府警務局が発足されて、全国に警務体制が整いました。

当時台北市内には15か所の警察署と派出所が有りましたが、台北北警察署もその一つでした。1920年台北市北部の治安維持管理のため蓬莱町(現寧夏路)に設立されました。

(当時の台北北警察署)

f:id:tsuyopytw:20200731161000j:plain

ところで、1920年と言えば民族自決主義が世界中で叫ばれた時期と重なります。第28代米国大統領ウィルソン民族自決主義を十四個条の平和原則の中で訴えました。

民族自決主義とは、欧州列強などの帝国主義により他国領土や植民地になることで、民族が奪われた自立権利を取り返すこと。民族は自己の政治的運命を自ら決定する権利を持つべきこと。他民族干渉は許すべきでないこと。と言う主義です。

(第28代米国大統領ウィルソン)

f:id:tsuyopytw:20200731161055j:plain

当時、東京には台湾から来日した大勢の大学留学生がいました。折しも大正デモクラシーの影響で、留学生の一部知識層が中心になり日本の台湾統治方法に反対したり、政治集会や出版活動を通じて台湾人アイデンティティーを日本から台湾民衆に訴える運動が発生します。政治集団『新民会』、機関誌『台湾青年』や『台湾民報』が有名です。

 機関誌『台湾青年』は、当時の台湾内大学生の間で密かに回し読みされていましたが、台湾総督府警務局が出版物を規制・検閲・干渉始めたため、台湾への持ち込みが徐々に厳しくなります。

そのため、台湾内部独自発行の機関誌が『台湾民報』です。そして、それを進めた人物が渭水です。蒋渭水宜蘭懸出身、1915年台北医学校(現台湾国立大学医学部)を卒業しました。

f:id:tsuyopytw:20200731161123j:plain

(台湾人の唯一の言論機関誌と謳っている。)

f:id:tsuyopytw:20200731162526j:plain

この医学校のことは前々回のブログで説明しました。医学校校長高木友枝は台湾民主化には非常に理解が有り、蒋渭水は高木から強い影響を受けたひとりでした。医学校卒業後、太平町(現延平北路)に大安医院を開設しました。

渭水台湾の社会問題、改革方法を議論する集会を開催しながら、議会設置請願運動を起し、文化協会も設立提唱しました。台湾人による初の労働組合や政党(台湾民主党)設立に寄与した公民運動のリーダーでした。

同化政策を進めていた台湾総督府としては、先進文化に未熟だった台湾人とやっと融和を図り、日本人皇民として差別をなくした教育を施してきたつもりでしたが、民族自決の意識に目覚めて民主化運動を始めたわけですから困惑したはずです。

 

警務局としては、極端な政治活動に対しては取り締まらないわけにはいきませんでした。渭水は1923年治安警察法違反で禁固4ヶ月、1925年台湾総督府批判を理由に禁固4ヵ月で北警察署に拘留されています。

(旧台北北警察署と留置場跡、台湾新文化運動紀念館としてリニューアルされた。当時の写真と比較して頂きたい。)

f:id:tsuyopytw:20200731161552j:plain

f:id:tsuyopytw:20200731161441j:plain

(蒋渭水公園の銅像、非暴力を掲げて医療用白衣と鞄を携えている。)

f:id:tsuyopytw:20200731161218j:plain

自ら創設した台湾民衆党の党是は孫文三民主義でした。やがて労働運動や農民運動に発展していきますが、1931年総督府により強制解散させられます。十数回にわたって逮捕・拘留で健康を害したのか同年腸チフスで命を落とします(享年40歳)。

(蒋渭水記念館、同人機関誌の旧印刷会社)

f:id:tsuyopytw:20200731161315j:plain

 

「同胞須団結、団結真有力(同胞は須らく団結すべし、団結こそが力なり)」という遺言を残しました。そして、市民葬が営まれ、蒋渭水の思想に共鳴した多くの市民が参列したそうです。