(第21回 その3)第二次国共合作から大陸反抗まで

今回は第21回で書いた中華民国南京政府)設立以降、共産党との第二次国共合作から大陸反抗までについて書きたいと思います。何故、中華民国台湾島に移動しなければいけなかったのかを理解するためです。

1925年革命半ばで孫文が亡くなります。革命遺志を忠実に引き継いだのが蒋介石ですが、北洋軍閥に対して北伐を、共産党に対しては上海クーデターで弾圧を進めて中華民国主席(南京政府)に就任します。

一方で、毛沢東が指揮する共産党は国民党から弾圧を受けながらも、ソビエト連邦の支援を受けながら農村を中心として徐々に支配領域を広げていきます。1931年江西省瑞金に中華ソビエト共和国(中華蘇維埃共和国)』を樹立させます。

これに対して蒋介石は、中華ソビエト共和国に対し5回にわたる大規模な剿共戦(囲い込み作戦)を仕掛け、1934年10月には共産党軍を壊滅寸前の状態にまで追い込みます。1934年共産党軍は江西省赣江市瑞金から西部奥地のソ連国境に近い陝西省延安へ移動(大長征)し中華ソビエト共和国は崩壊します。

ところが、もはや共産党軍も終わりと思われた時に奉天爆破事件で関東軍に謀殺された張作霖の嫡子張学良が1936年西安事件を引き起こしてます。

⇒第21回をご参考ください。

これをきっかけに、1937年中華ソビエト共和国(共産党)は、中華民国南京政府)に和平会議の招集・内戦停止・一致抗日・親日派排除を訴えます。

同年年7月日本軍と中国国民革命軍との間で北京郊外盧溝橋で日本軍が演習中に盧溝橋事件が発生します。8月には上海の日本租界(日本人居留地区)及び揚子江に停泊中の海軍に対して中国国民革命軍から攻撃される第二次上海事変も発生します。

北支事変から支那事変と呼称も変更されて、もはや北シナ地区に留まらず中国大陸主要都市部へ拡大する全面戦争の様相を呈してきます。やがては、呼称も大東亜戦争と言われるまでになります。

 

(1990年北京郊外の盧溝橋にて、当時私は某商社北京駐在員でした。今は亡き父母を盧溝橋に連れて行った際の写真。実は後年父親が書いた著作『1941年の日米交渉』に使った一枚。12年7月7日と敢えて”盧溝橋事変”と触れていないところが父らしい。)

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さて南京政府(国民党軍)ですが、当初日本との国力差も考えて徹底抗戦論には否定的でした。寧ろ満州での日本の権益についても融和的な政策を採っていた蒋介石でした。しかし、日中両軍の軍事衝突が華北地区から華中地区へ拡大するに至り、南京政府は徹底抗戦決意をせざるを得ませんでした。

結果、国民党軍と共産党軍は中華民国国民政府から武器・弾薬・資金を調達します。そして抗日民族統一戦線『国民革命軍(第八路軍)』として、第二次国共合作が成立するに至ります。

(第二次国共合作の頃の両党巨頭)

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共産党軍は実効支配地域の中華ソビエト共和国を廃止して  中華民国陝甘寧辺区政府(陝西省・甘粛省・寧夏自治区)として国民政府の行政院直轄区となります。そして下記の4項目の約束をします。

孫文三民主義の徹底的実現のために奮闘する。

②国民党政権を破壊する一切の暴動政策および赤化運動を取り消し、暴力をもって地主の土地を没収する政策を停止する。

③現在のソビエト政府を取り消し、民権政治を実現して全国政権の統一を期する。

④国民革命軍に改編し、国民政府軍事委員会の指揮を受け、その出動命令を待って抗敵前線の責任を分担する。

 

しかしながら順調に第二次国共合作が進む様に見えたのも束の間、1937年12月、日本軍は上海から長江上流地域へ戦火を拡大させて中華民国の首都南京陥落させます。これにより蒋介石中華民国南京政府)は急激に弱体化します。同時に、ソビエト連邦共産党軍に急接近して支援を始めます。そのために第二次合作の理念(上述4項目)は有形無実のものとなります。

首都南京陥落で蒋介石と婦人宋美齢は脱出、1938年中華民国政府は首都を重慶へ臨時遷都します。日本政府としては、これ以上の戦争地域拡大を望まず、蒋介石重慶国民政府を相手とせず水面下では日中和平工作を進めます。

幾つかの和平工作ルートの中で、ターゲットを親日派汪兆銘を中心としたグループと和平の道を探るようになります。

辛亥革命に感銘した孫文の側近として頭角を現す。中華民国国民党要職にあり、蒋介石とは協力と対立を繰り返す。最終的に容共と抗日の蒋介石と袂を分けた。日本の傀儡政権とも言われるが、中国の民主化を真剣に考えた愛国者。1944年名古屋で逝去(享年61歳))

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日本政府(近衛文麿内閣)と南京国民政府(汪兆銘)とは満州国承認と蒙古開拓を前提にして、戦局不拡大・中国からの日本軍撤退・治外法権撤廃、更には蒋介石重慶政府)との合流を軸に話し合いが続きました。

日本政府も1941年12月米英に宣戦布告したために、中国大陸へこれ以上の軍備投入も出来ないため、満州国承認とそこでの権益さえ取り付けられさえすれば支那事変への決着を付けるべく単独講和の道を模索したわけです。

 

(第一次近衛文麿内閣。戦後、近衛(最前列右側一人目)は巣鴨拘置所出頭日に杉並荻窪私邸にて青酸カリで服毒自殺。私の母親自宅が近所であったため幼かった母親は近衛からよく声を掛けて貰ったとの話を聞いた。)

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これには西側陣営(アメリカ及びイギリス)もソビエト連邦共産党軍への支援援助と共に危機感を覚え、中華民国重慶政府に軍事支援(アメリカ合衆国義勇軍)を含めた物資・人的支援を行います。これがのちに1943年カイロ宣言台湾島及び澎湖島の中華民国への返還に言及)にも繋がります。結果的に、日本軍との徹底抗戦へとなります。

⇒第2回をご参考ください。

 

(左側から、蒋介石総統・フランクリン ルーズベルト米国大統領・ウィストン チャーチル英国首相。)

 

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 ⇒第30回をご参考ください。

 

 1945年8月日本の敗戦後、1946年国共内戦が再開します。中華民国国民革命軍は、ソビエト連邦からの全面支援を受けた中華人民解放軍(共産党軍)に厳しい闘いを強いられることとなります。

1949年頃からは、国民革命軍の戦局が決定的に劣勢に立たされます。重慶・南京・北京・広州と次々に国民党軍の拠点を人民解放軍に奪取されます。そのため1949年1月、蒋介石国共内戦の敗北の責任をとって総統を辞任します。

総統代理として李宋仁(副総統)が就任します。李宋仁は中国共産党軍との和平交渉を北京にて開始します。交渉の結果、国内和平協定(案)を持ち帰ります。

この協定(案)の内容は、中国共産党軍との内戦停止と平和回復を謳うと共に、共産党軍(人民革命軍)が国民党軍に勝利したことを認めさせ、以下条件で構成されています。国民党南京政府内の戦争犯罪者処罰・憲法の廃止・軍の再編成(人民解放軍への改組)・官僚資本事業の没収(国家財産として)と土地再編成など8項目からとなります。

実はこの和平協定(案)8項目の中に日本(軍属軍人)に関する記述が有ります。即ち、先の日中戦争に関わった260名の処罰に関して、既に1949年1月時点で国民党南京政府はお咎めなく日本への帰国(帰還事業)を許しています。これについて、新たな中央政府の然るべき機関で対処(裁く)べきと書かれています。

戦後、満州を含む中国大陸には100万人以上の日本の軍属軍人が残留していましたが、1948年にかけて武器弾薬没収を条件に帰還事業の一貫で帰国が許されていたのです。武器弾薬は国民党軍に渡り、共産党軍との内戦に使用されたのは言うまでもありませんが、アメリカ軍としては残留軍人が中国大陸に残ることも嫌っていたので帰還させた事情もあるのです。

⇒台湾での帰還事業に関しては、第30回をご参考ください。

さて交渉で持ち帰った国内和平協定(案)ですが、国民党は調印を拒否します。その結果、交渉決裂となって長江流域での戦闘(渡江戦役)を経て中華民国首都南京は共産党軍により陥落して占領されます。

1949年10月には、毛沢東中華人民共和国建国の宣言をします。交渉に当たった李宋仁はアメリカへ亡命します。フランクリン・ルーズベルトの後任大統領トルーマンに対して、台湾の蒋介石の打倒を訴えた上で台湾をアメリカ合衆国領土とする案も持ち掛けます。

1949年12月、首都南京を奪取された蒋介石宋美齢及び息子蒋経國と共に成都から台湾へ移動します。翌年、台湾総統に復職します。1954年の総統選挙に再選されますが、アメリカ合衆国へ亡命した李宋仁は副総統を解任されるます。

 

中華民国政府臨時首都:重慶⇒南京⇒広州⇒重慶成都台北へと遷都を繰り返します。)

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台北へ移動した当初は、台北を臨時首都として正式首都南京を武力で奪回する機会を伺う(大陸反抗)の計画でした。ところが米ソ冷戦時代を迎えることにより、徐々に中華民国中華人民共和国から首都南京を奪回するのは現実的に困難な時代となりました。

1971年国際連合総会において、中華人民共和国が中国の正式な代表国家として認定されたことにより、中華民国国際連合を脱退します。更に1952年に締結した日華平和条約を破棄して、1972年日米両国とも中華民国と国交断絶する事態となります。

台北は事実上の首都(中央政府所在地)として暗黙の了解となり今日に至るわけです。