(第23回)烏山頭水庫(ダム)を造り、嘉南平野を実り多い土地にした八田與一ついて

第14回で紹介した新渡戸稲造の研究で糖業が台湾一大産業になったのも、第15回で紹介した磯栄吉が作った日本米と台湾米の混合品種の蓬莱米もある意味で、このインフラが整備されたからこそ台湾総督府の財政と日本内地に多大な影響を与えたと言っても過言ではないかもしれません。今回は、 烏山頭水庫(ダム)建設により、広大な嘉南平野を実り多い土地にした八田與一について書きたいと思います。

八田與一1886年石川県金沢出身です。1910年台湾総督府土木部土木課勤務となります。上司は第16回で紹介した台北市初の下水道設備(自来水)を造り上げた浜野弥四郎でした。

1914年から始まった第一次世界大戦による米価高騰、1918年からのシベリア出兵による米の買い占めなどの影響もあり、日本内地では慢性的な米不足となります。そのような状況下で台湾の糖業と米作作付け向上に期待が掛けられた時代です。

八田は土木部に着任以降、既に桃園平野の灌漑(桃園大圳)と水利に功績を上げていました。台湾総督府土木部は、八田にこの難問を解決する役割を与えました。八田は台南にある15万ヘクタールの広大な嘉南平野(官田・六甲・大内・東山地区に跨る)に着目して調査しました。

此処は、広大ですが灌漑施設が無いために旱魃(かんばつ)により肥沃な土地ではありませんでした。そこで、官田渓水系を堰き止めて『官田渓貯水池』として曽文渓水系から水を引き込み、水庫(ダム)を造り水路(幅4.5m、水深2.0m)を嘉南平野中に張り巡らせるという途轍もなく壮大な東洋一規模の灌漑計画を立てます。

(1918年から1930年まで家族と共に過ごした烏山頭にある八田邸、奥が八田のベランダ付き書斎)

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1918年7月日本では米騒動が勃発し米価が急激に上昇しています。それとほぼ同時に台湾総督府では第7代総督に陸軍大将明石元二郎が就任しています。その明石総督が1919年台湾の歴史上類のない灌漑大事業の着工の英断を下します。

ちなみに明石は在任中に死亡した唯一の総督です。日露戦争中、ロシア語が堪能だった明石は児玉源太郎(この時点では台湾総督も兼務)からの指示で1905年ロシア革命(第一革命)を扇動して諜報活動すると言う密命を帯びて地下活動で暗躍、ロシア帝国に揺さぶりをかけた駐在武官でした。

当時で200万円の機密費用を受け取り、レーニンなどに対して革命資金として拠出していましたが、1銭たりとも自分の懐に入れずにその会計報告はきちっとした清廉潔白な人物であったそうです。陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学卒の一貫して優秀な陸軍軍人で、将来は総理大臣の器とも言われていました。享年56歳。

(元々明石の墓は私の居住する台北市森林北路にある森林公園内にありましたが、現在では別の墓地に移されました。当時の鳥居と南洋樹のみ残されています。)

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さて八田は2年間の土地測量調査・予算編成・設計を経て、1920年9月から嘉南大圳烏山頭水庫の建設に取り掛かります。それは大規模な導水工事・給水排水路開削・ダム建設などの水利工事計画でした。

(烏山頭水庫の計画~設計~着工~完成まで家族と共に過ごし子宝にも恵まれた。)

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(2000名以上の作業者と職員が暮らした宿舎図。テニスコート・小学校・プール・クラブも完備、広場で盆踊りや映画観賞会も実施されたらしい。実は小学校の裏手には作業で犠牲になった方々(約140名)の墓碑もある。)

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 最新の掘削装置や運搬装置や鉄道関連敷設も必要でした。必要な大型土木機械は全て八田自らが1922年米国視察をして、最新ダム建設土木技術を見学したうえで発注したそうです。

(掘削装置の一部、当初は手馴れず人手の方が早いと言われた。)

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セミハイドロリックフィル工法と言う、当時では最新のコンクリートを使用しない方式で、粘土・砂・瓦礫を使いダムの底に土砂が溜まりにくい方法を採用したのも八田でした。この工法もアメリカ土木学会の技術者に図面確認して進めたそうです。

蒸気機関車で用材や粘土・砂・瓦礫の土壌を20km離れた曽文渓の川底から運びました。これは延長1237mの堰堤を造るためでした。当時は約2000名もの作業者が働いていましたが、彼らの移動手段としても使用されました。

(ベルギー製で時速約20km、1920年着工から1930年完成まで活躍。)

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1924年には濁水渓による灌漑が一部完成したことにより、第15回で紹介した蓬莱米嘉義晩二号)が灌漑区域に植えられ大成功を収めました。その結果、その地域農民の生活は豊かになったそうです。烏山頭水庫全体の完成を農民は待ち望んだのは言うまでもありません。

アスファルトの部分に運搬用蒸気機関車が走っていた。)

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着工から10年、1930年4月遂に烏山頭水庫が完成します。総工費5400万円(現5000億円)。嘉南平野を灌漑用水が張り巡らせられて、蓬莱米(台中65号)が植えられるようになると二期作で、日本向けに輸出されて農家も更に潤うようになりました。

烏山頭水庫は現在でも嘉南平野を満々とたたえている水で潤しています。更に1970年曽文渓水庫が新たに完成していますが、これも元々は八田のアイデアと設計と言われています。

(烏山頭水庫、別名珊瑚譚と言われた。)

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(給水門)

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1931年八田は台北台湾総督府内務局土木課に復職。その後、1942年フィリピンでの綿花灌漑設備調査のため広島宇品港から出港した大洋丸に乗船途中、アメリカ潜水艦の攻撃に遭い東シナ海にて沈没、八田も死亡。享年56歳。のちに、活躍した烏山頭水庫にお墓が建立されました。

(八田自身が最後まで拒んだ銅像、直立姿勢ではなく考え事をしている姿ならということでこの形になったらしい。戦後一時的に銅像が行方不明になったが、村人のお陰で今も烏山頭水庫を望む場所に墓地と一緒にある。)

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