(第24回)台湾における日本統治時代の専売制について

今回は台湾における日本統治時代の専売制に関連することを書きたいと思います。先ずは、専売制の定義「国家が財政収入を増加させるために、特定物資の生産・流通・販売を国家管轄化に置くこと。発生する利益は、国家独占となる。」

台湾総督府の財政について、特別会計制度をしいており日本政府から補助金を毎年収入として得ていましたが、1906年にはその補助金無しに財政独立を果たしました。その際には専売収入が約5割以上にも達していました。

結果的に日本の統治期間中(1895年~1945年)においても、台湾総督府の財政収入のおよそ2割超を専売品が占めて、主たる財源となりました。その専売品目は、樟脳(樟脳油を含む)と食塩、それと阿片でした。ちなみに、非専売品の主たる財政収入源としては、糖業による砂糖(砂糖税)と米穀物(蓬莱米)によるものです。

初代専売局長は民生局長後藤新平が兼任します。当初の専売品に阿片が含まれていた理由は、後藤の統治手法によるものです。清朝時代から根付いた吸引風習を全面的に禁止するのではなく、阿片吸引常習者を登録制にしたのです。新規吸引の許可はしていません。そうすることで徐々に常習者を減らしました。阿片は撲滅対象専売品でした。

1901年台湾総督府傘下に専売局を設置しました。煙草(1905年)、酒類(1922年)、マッチ(1942年)、石油(1943年)はのちに専売品として追加されます。

(森山松之助設計、辰野式の専売局庁舎。タワー、レンガ造りと白色のコントラストが象徴的。)

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 ところで、樟脳は清朝時代からの重要な物資でした。イギリス人やドイツ人の外国商人には特に人気商品でした。しかし、清朝時代は樟脳製造と販売権を外国商人が一手に握っていました。そのために樟脳原木の販売元と外国商人とは不公平な取引でした。

 樟脳の効用は、一般的に衣服の防虫剤として知られています。これ以外には、血行促進作用・鎮痛作用・消炎作用・痒止め作用・清涼感作用があるので、非常に重宝がられたわけです。

さてこの樟脳は、楠木(くすのき)の葉や枝が原料となります。簡単に言えば楠木を切削粉砕して高温で蒸して成分を抽出します。それを冷却機で結晶化させます。乾燥後に精製して取り出される白い結晶が樟脳となるわけです。

楠木の良木は、阿里山山脈(大塔山2663m)の様な高山でしか入手できません。そのため、第5代台湾総督陸軍大将佐久間左馬太は、山族先住民を軍事制圧しながら楠木の伐採を進めます。無抵抗な山族は平地に降ろされ、抵抗する山族は天候状態が更に厳しい高地に追いやられることになりました。

阿里山では楠木のみならず杉木や檜木の伐採もされていました。そのため森林資源輸送手段のため、阿里山森林鉄路(シェイ型蒸気機関車)が敷設されます。標高543m地点に、樟脳寮駅と言う駅名がありますが、樟脳会社の社員寮が多数有ったことに由来するそうです。

嘉義車庫園区にて。1914年米国LIMA社製造と銘板には記載されていました。)

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 (阿里山森林鉄道路線図、赤丸が樟脳寮駅。現在残念ながら蒸気機関車は運行停止中ですが、阿里山ー沼平、阿里山ー祝山、阿里山ー神木区間ディーゼル車両が運行中。)

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一方で伐採された楠木は阿里山から嘉義経由台北へ運ばれます。森山松之助が設計した辰野式の専売局庁舎(1913年着工、1922年完成)の道路を挟んだ向かい側が、専売局南門樟脳工場(1899年創設)です。此処は、台湾で樟脳を粗精製する唯一の工場でした。

(阿片精製もこの工場の中で行われていたとのこと。)

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最盛期には世界の樟脳需要の八割が台湾産で賄われていたこともあり、数千人の従業員が此処で働いていたそうです。現在でも南門パークとして跡地の一部が見学できますが、当時の工場の敷地面積は、この南門パークの八倍の広さだったそうです。

(手前のレンガ造り:樟脳倉庫、奥手の石造り:物品倉庫)

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レンガ造りの樟脳倉庫と荷造り場はお洒落なレストランとなりました。樹齢90年近い立派な楠木も現存しています。清朝時代の台北府城の城壁残骸で造られた物品倉庫は小白宮と呼ばれていました。

(小白宮、正に樟脳は白い結晶で高額財政収入を産む宝の山でした。)

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防火用貯水槽は、工場が火災に遭遇した経験により造られたもので、工場から排出された冷却水を貯蔵して灌漑用水にも使用されていました。搬入出する際のトロッコレール跡も確認できました。

(樹齢90年の楠木と四百石貯水槽、楠木の向こう側は小白宮の裏。)

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ところで粗精製以降の高純度精製は、従来イギリスなど海外樟脳メーカー自身で行っていました。専売局は品質安定化のため、そして売上増額のためにこの作業を民間企業へ業務委託することに決めます。1918年日本の樟脳会社(6社)と三井物産が合併して日本樟脳株式会社台北工場(現日本精化(株))が設立されることになります。

樺山貨物駅(現華山公園)の後方、酒造工場と同じ敷地内にその樟脳工場跡を見ることができる。)

 

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追記(ご参考)

 1937年に建てられた松山煙草工場跡です。本館と五つの倉庫の建屋、及び搬入搬出用の運搬レール跡が見られます。この工場後方は鉄道部台北鉄道工場跡があります。高砂麦酒株式会社(現台湾啤酒)工場とも運搬レールで繋がっていたようです。此処は戦後「台湾省専売局松山菸草工廠」に接収されます。その後1998年煙草の需要低迷により操業停止します。

(松山煙草工場。昭和12年創建、広い中庭を取り囲み近代的で簡素化された重厚なコンクリート二階建て造り。)

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(本館工場横にある原料倉庫跡。倉庫から直ぐに列車搬送できるよう駅のプラットフォームの様な構造になっている。手前にはレール跡。)

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