(第25回)台湾総督府と総督明石元二郎 ~李登輝元総統を偲んで~

2020年7月30日、李登輝元総裁が惜しまれながらも亡くなりました(享年97歳)。日本の台湾統治時代、新渡戸稲造に憧れて京都帝国大学農学部卒業、自らを親日派と言って憚らない政治家にして農政学者でもありました。ちなみに、新渡戸同様に李登輝氏もクリスチャンです。

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李登輝氏の一般弔問が台北賓館で行われました。私も日本の恩人である故人を偲び弔問して参りました。ご本人がお好きだった『千の風になって』が壮麗な台北賓館の中に静かに流れていました。

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この台北賓館は通常では参観できない施設ですが、日本統治時代の台湾総督官邸でした。国内外からの要人が台湾を訪れた際の迎賓館としても使われていました。1901年初代官邸が完成したものの、白蟻の犠牲になり、1913年増改築したものが現在の台北賓館です。日本家屋も有りますが、残念ながら参観できませんでした。ちなみに、第2回で取り上げた1952年日華平和条約調印式はこの台北賓館で行われました。

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台北賓館は、台湾総督府土木部営繕課の森山松之助の設計によるものです。フランスバロック様式の二階建てです。第16回台北下水道ポンプ室(自来水)と第24回専売局庁舎も森山の設計です。

ところで、台湾における日本統治時代(1895年~1945年)、台湾総督府では歴代武官(10名)・文官(9名)の合計19名が総督に就任しています。武官の内訳は、陸軍出身者7名、海軍出身者3名です。中には首相になった桂太郎日露戦争で活躍した乃木希典児玉源太郎もいます。

 そして、第7代総督は陸軍大将明石元二郎です。乃木と児玉と共に日露戦争で名を馳せたのはバルチック艦隊を撃滅した東郷平八郎元帥かと思います。しかし、明石がいなければ日露戦争の状況も変わったかもしれないと言われたほどの重要人物です。

 

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 明石は陸軍幼年学校~陸軍士官学校~陸軍大学と陸軍の中枢を歩み、語学と数学の英才でした。英語は勿論の事、ドイツ語・フランス語・ロシア語に堪能でした。将来は首相の器とも言われていました。

 日露戦争開戦と同時に駐ロシア公使館は中立国であるスウェーデンストックホルム)に移されて駐留武官として勤務しました。児玉からの指示でレーニンロシア革命を扇動してロシア帝国に揺さぶりを掛けよが後方支援としての明石へのミッションで見事に遂行しました。ジュネーブに有ったレーニン自宅にて会談もしています。

機密費用として200万圓(約4億円相当)を受領してロシア革命のために拠出しましたが、最後に残った27万圓まできちっと使用明細を付けて報告しているそうです。1圓たりとも個人の懐にいれない清廉潔白な人物だったのです。(1ルーブルは無くしたそうですが)

 台湾総督在任期間(1918年6月~1919年10月)としては僅か1年4か月間と言う歴代の中で決して長期間とは言えない人事でした。就任した1918年6月日本は、米価価格の暴騰により米騒動シベリア出兵の時期と重なります。世界的に見れば、第一次世界大戦終結に向かい始めた時期でもあります。

在任期間、日月潭での水力発電事業及び台湾電力会社を興しました。台南烏山頭水庫(ダム)建設(第23回記載)の英断を下し大きな仕事をしました。また新しく創設された台湾軍の初代司令官も兼任していました。更に本土と台湾との同化推進と教育格差の是正(台湾学制の統一)にも努めました。映画で有名になった嘉義農林学校もこの時代に創立されました。

不幸にも、総督在任中にインフルエンザ(スペイン風邪)に罹り亡くなります(享年56歳)。19名の総督中で在職中に亡くなったのは明石のみです。1918年~1920まで続いた世界的にパンデミック化したスペイン風邪は、死亡者数5千万人とも言われています。

 「余の死体はこのまま台湾に埋葬せよ。いまだ実行の方針を確立せずして、中途に斃れるは千載の恨事なり。余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」

 

故人の遺志により、故郷福岡ではなく台北市内の森林公園(当時、三板橋日本人共同墓地)に埋葬されました。福岡の墓地には遺髪のみと言われています。

後に日本人共同墓地は、1949年中華民国国民党軍が中国大陸から来て、バラックを建てたそうです。墓地はスラム化したとの当時の様子を知る方から聞きました。そのため明石の墓地も一時は不明になりました。その後1996年台北市の方針でスラム化した不法住宅は撤去されました。

現在では緑地公園(森林公園)に整備されて鳥居と南洋樹がその名残です。墓石は別の場所(新北市三芝区)に移されました。日本統治時代、約50年間の中で、その亡骸を台湾の土に還したのは明石のみです。それだけこの台湾経営と台湾住民への強い思いが有ったのでしょう。

 (鳥居と南洋樹木の間に墓石があったらしい。)

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