(第26回)台湾の日本統治時代における初等教育(公学校)について

MRT淡水信義線芝山駅から徒歩で20分ほど歩くと、夜市で有名な士林区芝山公園が有ります。2千万年前の大昔には海底でしたが、火山噴火により小高い丘になった場所です。アンモナイトも発見される場所です。

公園内に清朝康熙帝時代に福建省漳州府からの移民が建立した恵済宮という道教の廟があります。此処に日本統治開始が始まって間もない頃、廟を間借りして芝山巌学堂を開校しました。台湾総督府は先住民の日本語教育を重視したため、日本語を教えるための場所でした。

(恵濟宮の入り口、ここから急な百段以上の階段を上った場所に芝山厳学堂がありました。)

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日本から若い日本人教師7名が立派な教育精神を抱いて台北へやってきました。ところが、1896年に抗日匪賊により教師6名が殺害されてしまいます。『芝山巌学堂事件』と言います。

(殺害された六名の教師のお名前の墓碑がありました。)

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犠牲者の一人、楫取道明(幼名:久米次郎)は吉田松陰妹文(父親:楫取素彦)に育てられた教師でした。日本統治に変わった直後の時期であり、教育の趣旨も残念ながら理解されなかったのです。

殉職した日本人教師6名が眠るお墓が恵濟宮に有ります。恵濟宮から少し離れた場所にひっそりとあり御宮の方に案内して頂かないと判らない場所でした。のちに現存していませんが芝山巌神社が建立されて教育殉職者を祀ることになり、台湾の教育に携わる者の聖地となりました。今でも学校関係者や教師を目指す若者が参拝する場所と地元の方に教えて頂きました。

 

お墓の少し先に六氏先生石碑『学務官僚遭難之碑』が建立されています。この石碑は1896年伊藤博文が台湾訪問時に揮毫したものです。このような事件が発生したものの、日本語普及を目的に台湾全土14か所に国語伝習所を作ります。

(受難とする予定が、伊藤の判断で世情を考慮して遭難の文字に変更となったそうです。)

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そしてこの事件から3年経過して、台湾総督府は、『台湾公立公学校規則』『台湾公立公学校官制』『公学校法』を制定します。公学校とは台湾人子弟への初等教育を目指したもので、8歳から14歳未満までの台湾籍児童に対する6年間の義務教育実施に関する法令です。

科目は、修身・作文・読書・習字・算術・唱歌・体操でした。日本語に精通させるのが主目的でしたので、日本人子弟が通う尋常小学校の教科書とは違いが有ったようです。なお、原住民族に対する蕃人学校も公学校とは別に制定させました。ちなみに、この蕃人学校の教育にあたっていたのが駐在所の警察官だったそうです。

⇒第22回ご参照ください(当時の教科書掲載)

途中日本内地での教育課程と同様内容に修正されましたが、1941年全国公学校と蕃人学校と尋常小学校とが国民学校に統一されるまでこの状態が続きました。

公立学校であり、言わば義務教育でもあったので、台湾各地方政府が教育費用を負担しました。また、徐々に日常生活において日本語の重要性が理解されたので、日本統治終了時には、全国約8割に近い学童が就学していました。これは当時の先進諸国の中でも高い数字だそうです。

(自宅近所の旧日新公学校(現日新国民小学)、1915年開校当時は大稻埕第二公学校と呼ばれ、1922年から日新公学校となった。女子は日新公学校のそばの蓬莱公学校へ通った。1933年より共学、男女クラスは別々だった。何故か入り口に狛犬がいるが、設計者は不明。)

 

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初等義務教育が終了して、ここからは旧制中学(中等教育)や旧制高校(高等教育)を経てから台北帝国大学台北師範大学などへ進路となります。成績優秀が条件であるのは勿論のこと、台湾籍の子供は日本籍の子供と男女格差が付けられ、更に狭き門になります。

例えば、台北第一中学校(現台北市建国高級中学)では、終戦直前では在籍生徒はほぼ日本籍男子学生、台湾籍男子学生は僅かに3%しかいませんでした。

(台湾屈指のエリート名門高校、台北市建国高級中学。1908年台湾総督府修繕課 近藤十郎設計。代表作に台北帝国大学付属医院。⇒第17回参照、蒋介石像は戦後のもの。)

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⇒第19回ご参照ください(この格差はやがて台湾での民主化運動とも繋がります。一方で皇民化運動にも影響してきます。)

経済的に余裕があり成績優秀である台湾籍の学生は、台湾内の大学には進路せずに日本本土内の大学へ留学する道を選択するようになります。先日亡くなりました李登輝氏も同様に京都大学農学部へ進路します。