(第16回)台北市内の上下水道(自来水)の歴史について

今回は台北市内の上下水道(自来水)に関する歴史について書きたいと思います。我々が普段何気なく使用している水道ですが、清潔な飲み水が出ることを当たり前のことの様に生活しています。

 

世界的にみると、1856年イギリス ロンドンに世界最初の下水道が完成しました。世界の大都市ではこれに倣いましたが、日本統治以前、つまり清朝統治時代に台北府城内には上下水道はありませんでした。台北巡撫劉銘伝は城内の公共飲料水確保のために北門街(現衡陽路)、石坊街(現博愛路)、西門街に井戸を掘削、濾過消毒して飲料水として市民に提供していました。

 

日本統治時代になってからは、日清戦争後に伝染病や風土病対応策として帰還兵士に対する大検疫事業に関わった民生長官後藤新平は、その経験から台湾島内の疫病対策として衛生環境改善のために上下水道完備を都市開発重点項目の一つとします。

そして、1896年後藤はこの重点項目遂行するために二人の技師を日本から招聘します。一人は、外国人お雇い技師イリアム・バルトン、もう一人は浜野弥四郎です。

 

f:id:tsuyopytw:20200728232914j:plain

 バルトンは、1887年明治政府内務省衛生局に顧問技師として雇われた1856年生まれスコットランドエジンバラ出身の技師です。コレラ対策のため衛生局顧問技師として東京市上下水道取調主任に着任しました。帝国大学工科(のちの東京大学工学部)でも衛生工学講座を担当していました。のちに『水道之父』と呼ばれる浜野はバルトンの帝国大学での優秀な教え子でした。

 

 バルトンは、日本でのお雇い期間の9年間(元々7年間だった)が満了して、イギリスへ日本人妻と一緒に帰国するはずでした。後藤からの強い要請と日本びいきなために雇用期間を更に再延長しての台湾赴任でした。そして総督府民生部土木局に着任します。

先ずは、台湾各地の公衆衛生調査から始めましたが、風土病から守り公衆衛生向上のためにはやはり上下水道完備だとの再認識に至りました。そして次に上下水道を完備するための十分な水量のある良い水源地調査に着手します。この水源地調査には苦労したそうです。

そんな最中、バルトン自らが風土病(マラリア)に罹ります。治療のため1899年日本へ戻って療養しましたが志半ばで亡くなります(享年43歳)。東京青山霊園に墓地があるそうです。

浜野は恩師であり仕事の上司でもあった死には相当なショックであったはずですが、不屈の精神でバルトンの遺志を引き継ぎます。1903年以下の通りの計画をして、設備設計に取り掛かります。

①水源地を新店水系と定める。

②取水口を設ける。

③沈殿池と濾過池を設計、建築する。ここで洗浄濾過処理をする。

④小観音山山頂に浄水池と貯水池を造り、加圧ポンプで浄水池に揚水する。

⑤浄水池経由貯水池から自然落下方式で台北市内に給水する。

 

 現在ではその上下水道設備の痕跡が台北自来水博物館』で見学できます。自来水とは水道源水抽水浄水ポンプ室のことです。実際にポンプ室・浄水池・貯水池跡を見学してきました。日本統治時代には、この住所は水道町(現水源里)と呼ばれていました。

 

f:id:tsuyopytw:20200728233029j:plain

(1919年浜野の発起でバルトンの胸像が博物館前の芝生に置かれた、現在は残念ながら撤去された。)

f:id:tsuyopytw:20200728233648j:plain

 

ポンプ室の建屋は半円形上に設計されていました。まるでどこかの美術館と思えるような重厚な造りです。ポンプ室には、源水地からの抽水用ポンプが4機、浄水池への揚水用ポンプが5機設置されていました。米国製ポンプに混じり、日立製作所製と荏原製作所製も確認できましたがこれも凄いことです。

(手前が取水用ポンプ、奥が揚水用ポンプ)

f:id:tsuyopytw:20200728233102j:plain

 

次に浄水池と貯水池跡へ行ってみましたが、ポンプ室から歩く事10分ぐらいの50mほどの小高い丘(小観音山)の上にありました。洗浄濾過した水を浄水池まで引き上げて貯水後、小高い丘から一気に配水ポンプで台北市内に配給するようです。残念でしたが、浄水場と貯水池の設備は見学できませんでした。

 (浄水池の入り口)

f:id:tsuyopytw:20200728233138j:plain

(この芝生の下が貯水池)

f:id:tsuyopytw:20200728233237j:plain

 (小観音山からの下水道設置風景)

f:id:tsuyopytw:20200731123529j:plain

台北初の上下水道設備は1909年完成して、『台北水源地緩速濾過場』命名されました。日本本土では同年に東京市下水道計画が立案されたので、当時の東京よりも先んじて下水道設備が完成したことになります。

台北市内の下水道設置風景)

f:id:tsuyopytw:20200731123657j:plain

当初は台北府城内・大稻埕・艋舺が対象地区でしたが徐々にその上下水道地区も拡充されて、1920年代には台北市内をほぼ網羅して15万人の飲み水が確保されたとのことです。そして、陽明山系・竹子湖系・沙帽山系水源地から取水拡張により17万人の飲料水を確保しました。併せて32万人分の飲料水を賄うことができたそうです。1977年まで現役で稼働していました。

 

その後、浜野は1919年台湾総督府を去るまで16都市の上下水道計画に携わりました。特に1912年からの台南水道事業計画時には、烏頭山水庫(ダム)を設計した八田與市の上司でもありました。バルトンと水源地調査した結果を基に、曽文渓水源からの台南水道事業は途中第一次世界大戦を挟み、1922年完成、当時8万人の人口に対して10万人分の給水を可能でした。1988年まで台南住民に飲料水を供給してました。

台湾ではその業績を称えて『上下水道之父』とも風土病の撲滅に尽力したので『都市之医師』とも言われています。最初にも言いましたが、普段何気なく使用している水道ですが、先人たちの知恵と努力に感謝しないといけないと思います。