(第29回)終戦と引き揚げ事業について

今回は、日本の台湾統治の終焉である中国戦区台湾省降伏受諾式典(無条件降伏)後の日本人引き揚げ事業について書きたいと思います。

降伏受諾式典に関しては、第2回ご参考ください。

 

(1945年10月25日、台北市内(現中山堂)で行われた中国戦区台湾省降伏受諾式典の様子。降伏文章に署名する最後の臺灣総督陸軍大将安藤利吉(左側)、降伏文章を受領する台湾省行政長官陳儀(右側)、これが日本の統治時代終焉の瞬間。)

 

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降伏受諾後、最後の台湾総督府総督であった安藤利吉は、行政長官陳儀により台湾官兵前後連絡部(部長)に任命されます。また台湾総督府の東京連絡事務所が改称されて台湾総督府残務整理事務所が外務省管理局の下で設立されました。

1946年から1952年(サンフランシスコ平和条約発行)まで設置された特別部署で、名前の通りに日本統治時代における台湾総督府の残務整理が任務でした。主に引き揚げ職員の人事・会計・一般引き揚げ者の証明発行などを担当していました。

この事務所が1946年4月に作成発行した『台湾統治終末報告書』は、次の様な文章から始まります。そして下記内容で第7章結論まで報告されています。(原文のまま)

 

『吾が國の臺灣統治終局に付きまして顛末を御報告申し上げますことは感慨無量の至りに存じますが4月下旬在臺40余萬の軍官民の引き揚げ還送が完了致しました此の機会に終戦後の臺灣の実情殊に接収の経過、在留日本人の動向と其の還送等に付き以下概略御説明申し上げます。』

 

1、終戦直前の島情

2、終戦直後の島情

3、接収の概況

4、本島人の動向

5、在留日本人の動向

6、在留日本人の還送及財産処理

7、結論

 

日本の敗戦に伴い、台湾を始め朝鮮・中国・満州南樺太南洋諸島などの在留日本人の引き揚げ事業が始まります。当初の計画では台湾以外の他の地区からの優先帰還をさせ、台湾からの帰還事業は最終段階に実施される予定でした。

 

(基隆港からの帰還事業の様子、現金千円、食料若干、リュックサック2個程度の身の回りの物のみ持参、30kgの荷物の船便が許可されました。)

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理由は終戦直後の台湾の治安が、他の地域に比べてはるかに良かったからです。また敗戦を迎えても台湾在留日本人のなかには本国へ引き揚げを希望する者はわずかしかいなかったからとも言われています。

在留日本人が台湾人から危害を加えられたり、住居を追われたりすることもなかったようです。また戦前からの紙幣であった台湾銀行券が、敗戦直後も主軸通貨として流通していたのも大きな理由でした。この点が中国・朝鮮・満州と比較して、日本人の敗戦認識の違いなのです。

ところが、中華民国(行政長官陳儀)により台湾に台湾総督府に代わり台湾省行政長官公署が設立されると、状況は急激に悪化しました。大陸系中国人に実権が握られ、台湾人への政治参加の制限に対する不満、インフレの経済状況変化、言語や習慣の違いに起因する些細な軋轢など、台湾省に対する不信感・反感が高まり、それが在留日本人に対しても向けられるようになります。

 

終戦時点で軍人軍属15万7,388人+民間人32万2,156人(合計47万9,544人)が台湾からの引き揚げ者の対象でした(当時の台湾総人口は約600万人)。敗戦直後には、依然として旧第10方面軍が駐留し続けたわけです。連合国にとっても台湾に日本軍(武器は接収したものの)が残留していることは、治安維持の観点から良くないと判断して、早急に在留日本人を日本へ帰還させる方針に変更したのです。

1946年2月から開始された帰還事業は、先ず最初に軍人軍属を優先的に復員させ、その後に民間人を帰還させました。帰還事業は、第一次帰還(1946年2月~4月)、第二次帰還(1946年10月~12月)、第三次帰還(1947年5月)を中心に数回に分けられて最終的には第六次帰還まで事業は続きます。

 台湾各地に住んでいた台湾在留日本人は、 基隆・高雄・花蓮のいずれかの岸壁に仮設された倉庫(集中営)に集められて、3か所の港から乗船しました。台湾からの引揚者が上陸した港は、大竹(広島県)、田辺(和歌山県)、鹿児島(鹿児島県)、宇品(広島県)、佐世保長崎県でした。(名古屋浦賀博多に上陸した例も有り。)

 特に、第二次帰還事業と第三次帰還事業の対象者は、『留用日僑と呼ばれた日本人が対象でした。『留用日僑』とは、教育・研究・専売・電力・糖業・各種産業・農林水産・鉄道・港湾の各分野について中華民国政府にとって有用な人材として中華民国政府から残留要望された日本人及びその家族です。

第一次帰還事業完了後、最後の台湾総督安藤利吉は戦犯として逮捕され上海へ送られますが、隠し持っていた青酸カリで自殺を遂げます。

 

さて第六次帰還事業が終了した後も台湾(国立台湾大学)に留用された日本人が居ました。松本巍(在1924-1968年)植物病理学者で台湾糖業試験所顧問も歴任。磯栄吉(在1911-1957年)蓬莱米の父と言われた。

⇒i磯栄吉については、第15回をご参考ください。

 

台湾総督府残務整理事務所作成の報告書の最後(第七章結論)は、次のように書かれています。(原文のまま)

 『最後に臺灣は日本の版図より離脱致したのでありますが、半世紀に亘る日本との関係は急激に切断し得るものではなく、文化、産業、経済の各部門に亘り今後に於いても日本との連携を要するもの少なからず存ずるものと思料せられます。日本といたしましても、今後なお、臺灣に対する関心を失はず、交易、文化交換等の平和的方法に依り互助互恵の関係を維持し國運再建の一助とし併せて日華提携に寄与する處あらんことを哀心念願して已まぬ次第であります。