(第32回)中華民国中央銀行と台湾銀行について

現在流通している紙幣及び貨幣を見ると発券元は、中華民国中央銀行と印刷されています。取りも直さず、台湾政府系の唯一の中央銀行で発券業務を司っているわけですが、日本の中央銀行日本銀行であるように、台湾の中央銀行は、嘗て日本統治時代の中央銀行だった台湾銀行が現在でも引き継いでいるものだと思っていました。

中華民国中央銀行は、1928年上海で創設されました(上海中央銀行)。同年には軍閥首領張作霖関東軍により奉天(現瀋陽)で爆死された事件が有りました。また中華民国南京国民党政府が北伐を進め、上海で共産党を弾圧始めた時期とも重なります。

ところが1949年国民党政府は国共内戦に敗れて台湾へ遷都します。その頃既に台湾では日本統治時代も終焉してはいましたが、中央銀行の役割は台湾銀行が担っていました。中央銀行は実際の金融政策策定や銀行管理を行っていましたが、紙幣の発券業務は、2000年の新紙幣改定まで中華民国行政院台湾銀行に委託する形で代行していました。

元々日本の統治時代から終戦にかけても台湾総督府傘下に台湾銀行が存在していました。植民地としての特殊事情もあり、1897年日本本国から独立財政を目指すために設立された発券銀行中央銀行)であると同時に商業銀行でもあったのです。

 

(上:私が持っている1981年発行旧千元紙幣で蒋介石の図柄、下:現在流通している千元紙幣)

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ちなみに、日本敗戦後に業務を引き継いだ台湾銀行が発券した台湾兌換券は、急激なハイパーインフレで経済危機により千元紙幣・一万元紙幣も発行されました。経済回復のために通貨改革(デノミネーション)が実施されて新台湾ドル1元:旧紙幣4万元の比率で交換されましました。

 

(1937年完成した石造りの台湾銀行本店、現在でも当時の姿と変わりありません。台湾総統府に寄り添う様に建っています。当時の銀行建築の代表のひとつで、正面二階部のギリシア風の支柱が印象的。)

 

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さて日本統治時代に時間を戻しますが、統治初期の段階では台湾総督府は殖産興業へ緒に就いたばかりでした。そのため、台湾銀行設立当初は日本本土から独立した植民地財政計画を建てることは不可能でした。

そこで1899年台湾総督児玉源太郎と民生長官後藤新平の発案で専売事業を軸に『財政二十箇年計画』を立案しました。日本本土での財政収支から台湾総督府補助金として20年間継続して毎年歳入補填とすると言うものです。

⇒専売事業に関しては、第24回ご参考ください。

 

更に歳入補填以外に、南北縦貫鉄道敷設・基隆と高雄港湾築港・土地調査の三大事業ための公共事業公債発行(総額3500万圓)を計画しました。台湾経済の自立化及び台湾総督府としての財政黒字化(独立化)のための財政手段です。すなわち、官営事業を中心として積極的に殖産興業を展開して財政赤字を徐々に減らしていく方式です。

 

(当初は、総額6000万圓の公共事業公債を計画しましたが、最終的に3500万圓となりました。)

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1918年度までが当初の補填期間計画でしたが、土地調査事業による地税増加、樟脳・阿片・食塩・煙草など専売事業による収入増、事業公債による縦貫鉄道の開通と高雄と基隆港の開港による森林事業や貿易取引増、更には糖業の民間事業急成長による砂糖税増収や米穀物増産収入により、予想外に前倒しで1911年度には補助金補填も事業公債発行も無しに独立財政を達成できたのでした。この財政健全化は日本の敗戦1945年まで継続することになります。

上述の事業内容を中央銀行兼商業銀行であった旧台湾銀行が台湾発展の重要な役割と実務を担っていたわけです。特に、土地事業・森林事業・水利事業に関する銀行業務は、台湾銀行から勧業銀行(現台湾土地銀行)へ業務委託をしていました。

(旧勧業銀行、現在では台湾土地銀行の管理の下で国立博物館の一部として開放中。これも石造りで銀行建築の名残。)

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