(第31回)毛沢東夫人(江青)と蒋介石夫人(宋美齢)

1991年6月、毛沢東第四夫人だった江青が北京郊外の監禁先で自殺したニュースを人民日報で知った時のことはよく覚えています。四人組の一人として裁判の様子や死刑判決のTVニュースも衝撃的でしたが、まだ生きていたんだと言うのが正直な印象でした。

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当時はちょうど日系商社マンとしてちょうど北京に駐在していた時期でした。周りで文化大革命の時期を過ごした私と同年配以上の現地スタッフは、それなりの感想も有ったでしょうが、若いスタッフは興味も無いような雰囲気でした。

1930年代には上海で銀幕の女優スターであったのが、毛沢東と結婚して政治参加させないはずの周恩来との約束を反故にして、文化大革命を扇動した共産党中央政治局員にまで上り詰めて『紅色女皇』とまで呼ばれるようになったのですから。でも一体、中華人民共和国と国民に何を残したのだろう?

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もっとびっくりしたのが、2003年10月、アメリカで蒋介石のこれまた第四夫人だった宋美齢(享年105歳)が亡くなったニュースを聞いた時でした。蒋介石蒋経国さえもうとっくに亡くなっていました。

国民党以外の初めての民進党陳水扁氏の政権時代で、ちょうどSERS(重症急性呼吸器症候群)が流行った時期でした。私は某装置メーカーの営業マンで台湾市場を開拓している最中で台北へ駐在する前年です。

宋美齢は中国浙江省の裕福な家庭に育った三男三女の4番目の子でした。父親宋嘉樹は敬虔なクリスチャン(宣教師)で聖書の発行と印刷でひと財産を築いた大富豪でしたが、孫文の革命支援者でもありました。

一女(宋霭齢)と二女(宋慶齢)は共に孫文の秘書でしたが、二女が孫文に嫁いだのもそのような背景からです。

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宋美麗は9歳でアメリカへ留学した経験から英語が堪能でした。支那事変から大東亜戦争へと中国全土に拡大の兆しが見えると、1936年西安で軟禁状態にあった蒋介石を救い出し国共合作を勧めました。

1943年には蒋介石の通訳兼スポークスマンとして、アメリカ合衆国各地で抗日戦への軍事支援要請の演説をして軍資金捻出や義勇軍を引き出しました。これにより圧倒的に航空力で日本より劣っていた空軍の立て直しました。

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更に同年カイロ会談に蒋介石と共に出席して、米英に対して戦後の台湾及び澎湖島の中華民国への返還も約束させました。その結果、日本政府が水面下で進めていた日中戦争終結のための単独講和も水泡に帰しました。

戦後は中国大陸から台湾へ活動拠点を移したため、兄弟姉妹とは会うこともありませんでした。1975年蒋介石が亡くなると米国へ居を移します。

蒋介石夫人としての影響力は残しましたが、時代は李登輝氏により総統選挙や国会議員選挙の実施で民主化が進みました。国民党一党支配から民主党政権にもなりました。

『権力を愛した女性』とも言われていますが、それは江青も同じです。それでも日本統治時代末期から大陸反抗までのある時期、中華民国と台湾の歴史上で、ある意味宋美齢による行動が蒋介石や米英首脳陣の政治的判断に多大な影響を与えたのは間違いないと思います。

(1950年から蒋介石が亡くなる1976年まで一緒に暮らしていた士林官邸、現在では一般住居及び庭園が当時のまま開放されている。)

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