(第33回)廣枝音右衛門慰霊祭に参加して

廣枝音右衛門(ひろえだおとうえもん)と書いても歴史上の人物として取り上げられることは滅多にないので、ご存じない方が多いと思いますが、この方の慰霊祭に参加しました。場所は苗栗県獅頭山勧化堂でした。

(獅頭山勧化堂の後廟)

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(慰霊祭の様子、24名の台湾人と日本人が列席されました。)

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(廣枝音右衛門のお位牌)

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廣枝音右衛門は1905年神奈川県小田原生まれ。1930年台湾総督府警察官に採用されます。基隆・新竹・竹南・大湖・苗栗に勤務しました。そして、警部補に昇進した1943年フィリピン(マニラ)へ海軍警部巡査隊隊長として台湾人兵士500名を率いて派遣されます。

 (若い台湾兵士には父親のように慕われて、部下の事を思い遣った上官だったそうです。)

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1942年日本軍はフィリピンを占領していましたが、1944年10月日本軍はレイテ沖海戦の敗北を皮切りに戦況が悪化します。そして1945年1月、米軍は連合国捕虜とルソン島奪還のためにリンガエン湾から上陸して首都マニラを目指します。

廣枝はその様な時期に台湾人兵士を連れてフィリピン(マニラ)へ守備隊として着任したのです。1945年2月から3月にかけてのマニラ市街戦での攻防戦に巻き込まれます。懸命に戦うも、最期は部下の台湾人兵士を説得して投降させて廣枝自身は責任者としてイントラムロス城内で自決をします(享年40歳)。

ちなみに、このマニラ市街戦では一般市民を含めて10万人が犠牲になったそうです。そしてその責任で敗戦後に陸軍大将山下奉文マレーの虎と言われた)が現地での軍事裁判に掛けられて死刑判決を受けます。

 

下記は、廣枝音右衛門が最期に部下へ残した言葉と言われています。

『お前たちは日本の御国のためによく戦ってくれた。しかし、このままでは犬死となる。両親や兄弟、そして妻や恋人が台湾でお前たちの帰還を待っている。これからはお前たちが台湾を守る人材だ。私がお前たちを連れて帰れないのは残念だが、降参してでも生き延びて絶対に台湾に帰還しろ。これは私の最後の命令である。そしてこの責任は隊長である私一人が負う。』

 

この時の部下数名が米軍の捕虜になりながらも無事に台湾へ帰還。1976年白色テロ戒厳令がまだ続いていた台湾で廣枝音右衛門(上官)の慰霊祀りが始まったのです。

2008年からはこの話に感銘を受けた日本人ボランティア団体が今日もなお志を引き継いで毎年主催しているのです。既に廣枝音右衛門の直属の部下は全員が天寿を全うされたために、その子孫の方々が列席されています。

 

さて、上述の台湾人が何故フィリピン(マニラ)まで海軍兵士として駆り出されたのでしょうか?

 

実は1942年から台湾において本格的な志願兵制度が施行されました。先ずは陸軍特別志願制度で、漢族系台湾人4200名+高砂族系台湾人(高砂義勇隊)1800名(合計6000名)が志願しました。翌年1943年には海軍特別志願制度が実施されて、11,000名が海兵隊に入隊しました。

 

これほどの志願兵が集まったのも1930年代から始まった同化政策皇民化政策による日本人化教育の影響も多大であったかと思います。

⇒第22回をご参考ください。

 

廣枝音右衛門が率いた500名は新竹州で募集された海軍特別志願兵で、上述の11,000名の一部であったわけです。志願年齢は17歳から33歳までの男子とされました。1945年終戦の年には台湾人も徴兵制度により強制的に兵役義務を負うことにはなったものの、既にこの志願制度においても半ば非国民呼ばわりされるのを恐れてのやむを得ない志願も有ったかと想像します。

 

日本陸軍と海軍へ軍属した志願台湾人兵士(1万7千名)の内、約2千名が南方戦線から帰還したそうです。先の戦争で日本兵の軍人軍属として駆り出された台湾人は20万人強、その内で戦死或いは病死した台湾人は三万人強でした。

 

残念ながら、それら軍人軍属に属した台湾人は、戦後の国籍変更により日本国政府からは何らの金銭的戦後補償も受けられていません。また1952年日華平和条約の締結により中華民国からも同様の扱いでした。国民党政府(或いは、大陸からの外省人)からは日本人へ協力者と見られて残念ですが辛いめにも遭った家族も多いと聞きます。