(第22回)台湾の皇民化政策(運動)について

今回は、7月末惜しくも97歳で亡くなった李登輝元総統を偲びつつ台湾における皇民化運動について書きたいと思います。

第19回で書きました通り、台湾における民主活動の先駆者である渭水が創設した台湾民主党は、1931年に解党させられます。同年には関東軍が中国満州にて満州事変を勃発させて、東北三省を制圧するに至ります。その後は日中戦争に突入して泥沼化するわけです。

大日本帝国が台湾を統治始めたころは、清朝時代からの戸籍・風習・文化は強制的に禁止するのではなく緩やかな管理をして、原住民族との融和にも努めてきました。しかし日中戦争の頃になるとその空気は台湾のみならず韓国でも一変します。

つまり、日本本土のみでの徴兵制度では数に限りがあるために、植民地においても本土と同様に、植民地においても完全な日本人化が必要となりました。そのために、皇室及び大日本帝国に対して忠誠と同化を強制化した指導をすることになります。それが皇民化政策(運動)です。

台湾人による民主化運動の機関誌(同人誌)発行、政党創設などは論外であり、思想教育に関して徹底的な監視と干渉を始めます。逆に皇室公民としての神社仏閣への参拝・日本語教育台湾語の禁止・日本人名への創氏改名などを強要することになりました。

ですから、1930年代以降、台湾各地200か所で神社が創建された時期と重なるのです。第11回でご紹介した桃園神社(現桃園忠烈祠)は、当時の姿を現存する数少ない神社の一つですが、参拝の励行を当時は強要したはずです。

(日本の神社と変わらぬ風景、桃園住民からの強い要請で文化遺産としてしっかり保存されているだけでもありがたいものです。)

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 第19回でご紹介した台北北警察署は、現在『臺灣新運動紀念館』にリニューアルされましたが、そこでは台湾の民主化運動や皇民化運動に関することが展示されています。

読み書きについても、内地と変わらないかそれ以上に学校教育に力を入れていました。初等科教育ではしっかりとした教材のもとで日本語を徹底的に叩き込まれたために、今でも相応の年齢のご老人は日本語が達者な反面、中国語を習得する機会を逸してしまった面もあります。

(私の近所にある蓬莱公学校の当時の授業風景、随分と大勢の生徒さんです。)

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国民読本、カタカナで書いてあるのが面白い。)

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蕃人用(原住民族用)学校の非常に簡単な教科書)

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集団での活動や運動会は、日本民族としての集団意識高揚のために地域或いは学校ごとに定期的に開催されていました。面白いところでは、国民保険体操たる運動が存在していました。現在で言うラジオ体操ですが、これは米国の真似で保険会社が健康管理のために創作したものです。当時の日本人ならば台湾人でも踊れた体操だったらしいのです。

国民体操図解掛図、懇切丁寧なマニュアル。どうやら第一と第二が存在したようです。例えば、胃腸を良くする運動にはヨイサ・ヨイサ運動が有ります。ヨイサッと掛け声でも掛けながら動かしたのでしょうか。)

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李登輝元総統は、皇民化運動真っ只中に成人して岩里正男と名乗り、新渡戸稲造の農政学に感化されて京都大学農学部で勉学に勤しみ終戦を迎えました。『私は22歳まで日本人でした・・・』とは李登輝氏の言葉ですが、皇民化運動を肯定的に捉える人物は希少です。

この皇民化運動の名のもとに約4000名の台湾の若者(高砂)が先の戦争で戦地に駆り出されて、日本のために帰らぬ人となったことを思うと複雑な気持ちになるわけです。