(第30回)台湾バナナについて
台湾の歴史からは少々逸脱しますが、今回は嘗ては外貨収入の稼ぎ頭の一つだった台湾バナナについて書きたいと思います。
私の趣味は歴史以外ではランニングで国内外各種マラソン大会にも出走しています。どの大会でも給食場所(エイド)に1/3にカットされて置かれているのがバナナです。
嘗ては台湾製糖工場があり、台湾バナナの産地でもある高雄近郊の旗山バナナマラソン大会に出走したことがあります。エイドでは特産のバナナを使った食べ物(バナナそのものは勿論、バナナケーキ、アイスキャンディー、クッキー、何故かスープなどなど)が置いてありました。特にバナナケーキは絶品でお土産に買って台北へ帰りました。
(2018年バナナ畑の中もマラソンコースに設定されている思い出深い大会。バナナ柄のTシャツを着てと疑似バナナをぶら下げてのプチコスプレで出走した思い出深い"香蕉馬拉松"大会。)

(バナナ畑のコースで)


さて、このバナナですが、台湾は生産地としては北限に位置するのだそうです。1903年日本が統治していた時代、春から初夏にかけての果物が少ない端境期のために、台湾産バナナを何とか果物として日本へ持ち込もうとしたのが最初らしいです。
(台湾はバナナベルト地帯(産地)の北限地点。高温且つ雨量が必要。)

その当時の日本側の入港窓口は門司港だったとのことです。最初のうちは竹で編んだ籠に入れて持ち込んだとのことです。台湾は日本領土の一部でしたから、統計上では輸入と言わずに移入と呼んでいたらしいです。検疫検査も有って無いようなものだったのでしょう。
足が速いバナナですから、そのために門司港ではバナナの叩き売りが流行ったのだそうです。1924年に台湾総督府主導で半官半民の果物青果株式会社を興して台湾バナナ普及に努めたのです。
しかしながら、40年代に入ると戦況も日々厳しくなったので、バナナよりも米穀増産計画を優先した結果、バナナの日本への移入量が激減することになります。
戦後になり50年代から60年代になると逆に日本への輸出量が急激に伸びました。当時はバナナと言えば台湾バナナを指したものです。しかし、価格が高く高根の花で病人でもないと一般人には手を出せない果物でした。
私は50年代末生まれですが、幼児だった頃にこのバナナを食べさせて貰ったらしいのですが、そのために今でも好きなのかもしれません。そして60年代になるとコレラ流行により台湾産バナナは輸入激減して安いフィリピン産に取って代わります。
70年代にはいると日本への輸出量は回復します。台湾の外貨獲得金額の1/3がバナナに起因していた時期もありました。ところが、最近では、1位フィリピン(9割以上)、2位エクアドル、3位メキシコ・・・10位台湾の順位だそうです。

それでも最近ではコロナウィルスの関係で輸入制限もあり、少々値段の高い台湾産(嘉義県阿里山)のバナナも売られているようです。高山バナナとでもいうのでしょうか、この辺だと2千メートルから3千メートルの高度は有りますから。
日本に輸入される果物のうち半分以上を占めているのがバナナだそうです。国内での消費量も、みかんに次いで2位、りんごより多く食べられています。ほかの果物と違って、1年中収穫できることが要因だと思われます。
また日本での1人当たりの平均消費量は年間7~8kgで、ヨーロッパや北米の15~16kgと比べて圧倒的に低いのが現状なのでもっと日本人には台湾バナナを食べて頂きたいですね。
ちなみに、あのマンゴーの輸入先ランキングは、1位メキシコ、2位、3位ペルー、4位台湾だそうです。