(第18回)台湾の鉄道発展と鉄道ホテルの歴史について
清朝時代末期になり、欧州列強の帝国主義により台湾島において防衛上の理由と商業上の理由で、基隆から台北経由新竹まで台北巡撫劉銘伝が鉄道敷設します。その後、台湾総督府交通局鉄道部が引き継ぎ、従来路線を修復しながら高雄までの台湾縦貫鉄道路線を計画します。
民生長官後藤新平が鉄道部長を兼任しますが、この莫大な費用を台湾事業公債(1899年10年債)を募集することで乗り切ります。土地調査・官舎と庁舎新築・港湾工事も含み総公債費用3,500万円、そのうち2,880万円(8割強)が鉄道敷設費用でした。後藤はこの時の経験を生かして、のちに満州鉄道総裁にも就任します。
後藤は長谷川謹介を台湾総督府鉄道部技師長として招聘して、台湾縦貫鉄道の総責任者として任命します。のちに台湾鉄道之父とも呼ばれた人物です。1908年4月基隆駅と高雄駅が縦貫線で繋がりました。同年10月には台中公園で『縦貫鉄道全通式』が挙行されたのです。
さて、この縦貫鉄道の開通式に合わせたかのように、1908年11月『台湾鉄道旅館(Taiwan Railway Hotel)』が営業開始します。場所は台北駅前で、台北府城北門から1904年に撤去された城壁の延長線上に建てられたわけです。
(鉄道ホテルの正面玄関、道路は現在の忠孝東路。道路を挟んで手前側が台北駅。)
旅館と命名されていますが、相当に豪華で最先端の西洋式高級ホテルでした。松崎萬長(まつざき つむなが)の設計によるもので、鉄道部傘下の経営でした。広さは、3069坪、3階建て、客室数30部屋でした。
客室以外には、大宴会場・大食堂・レストラン(2か所)・プール・ビリヤード・バーを備えて公共スペース全面禁煙の格式高いホテルでした。また総重量300kgまで大丈夫なエレベーター付きの最初のホテルでした。
ちなみに、大食堂では500名宴会開催できるほどで、皇族や各国大使などの宴会や式典を年間500回ほどこなしていたとのことです。毎週土曜日にはロビーでクラシック楽団による生演奏も聴けたそうです。
自由民権運動で有名な板垣退助が定宿としていたのですが、台湾へ行く外国人のための鉄道ホテルの広告展示を見つけました。日本旅行社(のちのJTB)ですが、外国人向け東京ステーションホテルと台湾鉄道ホテルの広告が展示されていました。
では一体どのくらいの値段で宿泊ができたのでしょうか?
る。
1871年(明治3 - 4年)に新貨条例により圓・銭・厘が新通貨として導入されました。1銭は、0.01円・10厘に等しく、明治時代1圓=現代2万円と言う換算尺度があります。これを基準に算出すると以下の通りとなります。
①宿泊費用:1.6~3.5圓/泊(32000円~70000円/泊)
②食事費用:朝食1圓、昼食1.5圓、夕飯2圓(2万円、3万円、4万円)
③入浴料25銭(5000円)
④理髪50銭(1万円)
⑤馬車:1頭 5-8圓(10万円~16万円、半日全日の昼間夜間で相違有り)
⑥両頭馬車:お値段交渉次第
(1908年営業開始時点の再現版値段表)
展示資料には、東京帝国ホテル・東京ステーションホテルとの宿泊費用比較もあり大変に興味深いです。ホテル案内と言う説明書も展示されていました。この書面には、ホテル位置・設備・料理・宿泊料・食事・酒場・ビリヤード・喫煙室&読書室・浴室・宴会・などの項目に説明書きが拝見できます。
例えば、料理の項目にはこのように書かれています。
『料理は永年欧米の厨房に経験を有する料理長の手に成り、飲料は内外高等の酒類数百種を備え、来客の命に應じて直ちに食卓にあがるべし。』
私が好きだったTVドラマ『天皇の料理版』というのがありましたが、まさに主人公秋山徳蔵がフランスで修業していた時期とも同じです。
食器、フォークやナイフなど備品類は全てイギリスから調達したそうです。ある時のメニューも紹介されていました。台湾全国の食材をふんだんに使用した冷菜、前菜、スープ、メインディッシュ(2品)、果物、デザートまでのフルコースです。デザートと言えば、台湾で最初にアイスクリームを提供したのも鉄道ホテルらしいです。
また、ホテル開業後すぐに、ホテル近く(西門街)にパン屋も作ったとのことです。カナダから高級小麦を仕入れて毎日焼いて、お客様はお好みのパンを選択できるというのが自慢だったのです。
ところで、このホテル支配人福島篤でしたが、ホテルレストランのみならず、列車の食堂車もホテル業務管轄だったそうです。福島は食堂車の配膳係を全員男性から若い女性に変更したそうです。そして料理価格も安くしたところ大変な人気になったそうです。
現在、1919年竣工された鉄道部庁舎はリノベーションされましたが、鉄道ホテルは1945年5月『台北大空襲』で米軍空爆により被弾延焼しました。残念なことですが、その後鉄道ホテルが再建されることはありませんでした。
(2020年7月鉄道博物館としてオープンした旧鉄道部庁舎)
(鉄道部庁舎隣にある幹部用日本家屋跡?、残念ながら未整備)