(第20回)辛亥革命と清朝滅亡について

前回のブログで日本の台湾統治時代は1920年代に突入してしまいました。今回は少々時間を戻して、辛亥革命清朝滅亡の過程に関することを書きたいと思います。このブログは、本来台湾歴史に関する事を主題に置いていますが、中国大陸での清朝滅亡により成立する中華民国(臨時政府)がその後の台湾の歴史に大きく影響してきますので、少々お付き合いください。

さて17世紀から19世紀前半までに異民族(満州族)王朝の清朝は直轄地・藩部・朝貢国を含めて巨大な領土となりました。ところが、19世紀中期以降、欧州列強国の帝国主義植民地主義)によりアジア地域、とりわけ中国大陸各地の租借を虎視眈々と狙い始める状況となったのです。

(1908年前後の清朝領土範図)

 

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欧州列強国が日本も巻き込み清朝と度々戦争を起こします。1840年阿片戦争に始まり、1860年アロー戦争1884年清仏戦争、1895年日清戦争と続き清朝は敗北を重ねます。しかし清朝も手をこまねいていたわけではありませんでした。

アロー戦争敗北後から欧州列強国の更なる侵略に対抗するため、清朝軍隊を旧式軍隊から西洋式化を図りました。これを洋務運動と言います。但し、腐敗した清朝漢人官僚を頂点として儒教思想の旧態依然の政治体制をそのまま維持する思想でした。そのため日清戦争での敗北で洋務運動はもはや限界でした。

諸外国との戦争敗北による賠償金負担を始め、西太后清朝自身の膨大な浪費と借金、清朝漢人官僚堕落や汚職も次々に暴露されます。『眠れる獅子』とも恐れられてた清朝も案外脆いことが判り始めたのです。

(晩年頃の西太后、爪にご注目!)

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そんな清朝漢人官僚の中にも、日本の明治維新の様に徳川幕府から脱却して天皇中心の立憲君主制による政治改革と同様な革命が必要だと認識する先進的な漢人官僚(康有為や梁啓超清朝皇帝(光緒帝)もいました。

この革命(戊戌の変法)を起そうとしますが、西太后を中心とした保守派に鎮圧されてしまいます。そしてその鎮圧協力したのが袁世凱でした。この功績により、西太后から山東順撫に任命されます。清朝官僚でもない一軍人が大出世です。

("私利私欲の男"と言われた袁世凱

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 日清戦争の敗北で、欧州列強からの三国干渉により一時的には助けらえたものの、結局ロシアに遼東半島最先端(旅順口)、ドイツに山東半島膠州湾(青島)、フランスに広州湾を夫々租借地として提供する羽目になります。

軍事的侵略による租借地化だけではなく、宗教面でも侵略の影響が出ます。軍隊と共に多くのキリスト教宣教師が布教活動にやって来ます。清朝としては少々面倒な問題です。儒教・仏教・道教が三大宗教でしたが、特に儒教の教えは重要でした。儒教の祖孔子の故郷は魯で今の山東省青島辺りです。ドイツはその山東省を租借しました。

1900年山東省でキリスト教布教活動を反対する集団が扶清滅洋清朝を助けて欧州列強を潰せ)を合言葉に立ち上がります。所謂、義和団事件(北清事変)です。山東巡撫に任ぜられていた袁世凱は、地元の混乱に義和団鎮圧に当たります。

 (義和団は別名白蓮教、棒術・武術・剣術に優れた辮髪武装集団でした。)

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一方で清朝西太后の支持を得た義和団は、山東省から天津と北京へ北上を始めます。これに対して、諸外国は大使館及び領事館保護・居留民保護・キリスト信者殺害を名目に、8か国連合軍大日本帝国、ロシア、イギリス、フランス、アメリカ、ドイツ、イタリア、オーストリア)は軍隊を北京へ派遣します。

(オランダがちゃっかり加わり8+1か国。一番右側が大日本帝国兵士。明治時代の男性平均身長157cm。帝国陸軍は連合国の中でも距離的に近かったこともあり、8千名というう最大人数を派遣した。)

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袁世凱軍隊(北洋軍)はさすがに8か国連合軍には勝てないと判断して、清朝西太后の命令にも従わずに日和見主義を決め込みました。北洋軍と領土保全のために諸外国と密約を交わしたのです。逆に清朝正規軍隊は壊滅状態で敗走をします。

義和団事件時に、北京から長安陝西省西安)へ逃げていた光緒帝と西太后ですが、1908年相次いで崩御します。西太后は死の直前に僅か3歳の宣統帝溥儀の即位を遺言に残しますが、清朝はもはや末期状態でした。

(弟溥傑と共に、大日本帝国に世話になった溥儀)

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 ところで、清朝最後の皇帝である愛新覚羅宣統帝溥儀の生涯を描いた『The Last Emperor』は好きな映画ですが、その中のワンシーンを思い出します。

 1911年湖北省武昌と漢陽で反清朝孫文革命思想に共鳴した革命軍が辛亥革命を起した結果、この革命が全土13省に拡がりを見せます。ある時黄色い服(従来は皇帝のみが着られる色)を身に着けていた弟溥傑に対して皇帝である(あった)兄溥儀が注意します。これに対して弟溥傑が「貴方はもはや皇帝ではないのです。」と言うシーンが有ります。

1924年テニスを興じていた溥儀一族は、踏み込んで来た張作霖の直隷派から紫禁城を追われるように日本の関東軍に守られて天津へ脱出するのです。その後、溥儀は故郷である中国東北地方に満州国の再建を夢みます。映画ではこのように描かれていました。

史実としては、1912年この時を以て皇帝溥儀は退位、1644年から268年続いた大清王朝は遂に滅亡します。そして中華民国が成立するのです。但し、この時点で正式には臨時共和国政府です。臨時共和国の拠点をどこにするか、大統領を誰にするか未決定だったからです。

本筋で言えばこの革命を指導した孫文(中山)が共和国大統領に就任するはずでしたが、亡命先の米国先から上海へ帰国途上でした。一方で、清朝最後の皇帝溥儀を紫禁城から追い出す(退位)交渉役は、本来清朝側北洋軍首領の袁世凱でした。

この微妙な二人の立場により、臨時共和国政府の運命が変わります。次回は中華民国北京政府と南京政府の成立に関して書きたいと思います。