(第5回)淡水と旧商業地区として水運で繁栄した大稻埕・艋舺の歴史について

今回は淡水の発展と旧商業地区として水運で繁栄した淡水河上流の大稻埕・艋舺の歴史に関して書きたいと思います。先ずは淡水の歴史に関して説明をします。

淡水は台湾最北部にある淡水河下流河口にあり、対岸は観音山と向かいあっています。外海は台湾海峡です。歴史的には17世紀初頭、平埔族原住民(凱達格蘭ケタガラン族)が居住していました。彼らの言葉ではホオベエと呼ばれ、漢字では滬尾あるいは虎尾と表しました。

淡水河に掛かる関渡橋とハイキングコースで有名な観音山)

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(文字を持たないケタガラン族、やがて漢人と交流して平地に住む様になった。)

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17世紀にスペインの城とオランダの要塞を建築した際に世界史上に淡水の名前が初めて登場します。1828年スペイン『セント・ドミンゴ城』を築いた時、次にオランダがスペインを駆逐して、この城をアントニー要塞』に名称変更した時です。

アントニー要塞は、中国名紅毛城と言います。淡水河を見渡される小高い丘にあります。意外に小さいのが印象的。)

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 次に第4回で説明した通り、オランダは明朝遺臣鄭成功(鄭氏王国)の来襲により台湾から撤退し要塞は廃墟化して淡水の存在が忘れられます。時代は清朝時代に移り、清朝軍はイギリス・フランス連合国軍とのアロー号戦争での敗北で、1860年北京条約で淡水を正式に開港します。これで再び、淡水が世界で注目される結果となります。

(当時の淡水での積み荷や荷下ろしの様子、右手側に観音山が描かれている。)

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 (現在の淡水、絵画とほぼ同じ角度からのショット。赤丸が船舶係留部位の残骸。アントニー要塞は、写真左手の丘に位置する。この港の先に税関が有った。)

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北京条約で4港(淡水・基隆・台南・高雄)が正式開港された結果、イギリスはアントニー要塞を清朝から租借して領事館に転用し外交官を駐在させます。以降、商館設立、通商の自由、税関開設、キリスト教布教、阿片輸入の権益を獲得します。

 

1880年代に入ると、清国とフランスはベトナム領有権(宗主権)を巡り、清仏戦争(1883年~1885年)が勃発します。1896年台湾巡撫劉銘伝は、フランス軍からの攻撃に備えて淡水に滬尾砲台を築きます。

滬尾砲台は、旧イギリス領事館から1kmほど先の淡水河を見渡せる小高い丘にある。基隆港(二沙湾砲台)にも新型砲台を再建してフランス軍の進軍を防いだ。)

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入口の砲台門には劉銘伝自身の揮毫「北門鎖鑰」が残されています。数座の砲台と城壁も現存しています。砲筒(英国アームストロング砲)は英国商社怡和洋行から購入したもの。

残念ながらレプリカですが、7インチ砲で1万ヤード(約9千メートル強)の射程距離の能力があったとのこと。全部で31門を購入。

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 (城壁に設置された砲台(赤丸)、31門の内10門が此処に設置された。)

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1890年代に入ると、現在の淡水駅そばに淡水殻牌倉庫(嘉士洋行倉庫)が設立されました。1894年イギリス商人(Francis Cass)がこの場所を永久租借権を得て、シェル石油(石油・軽油・潤滑油など)を貯蔵販売するために倉庫建設と輸送運搬用の鉄道敷設をしました。

(油品種別に倉庫が分かれています。倉庫の窓には頑丈な鉄格子の扉がはめられています。写真(左手)潤滑油倉庫、(右手)ガソリン倉庫、(正面)各種油用ドラム缶製造所。)

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(倉庫のすぐそぼのわきには引き込み線とプラットフォームが設置されていました。)

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19世紀後半になると、淡水河口付近に土砂が自然堆積して港として機能が低下します。代替として基隆港が貿易港として整備されるまで、台湾最大の港湾として繁栄します。しかし徐々にその役割も終える運命にあります。

 さて、話題を変えます。

 17世紀から18世紀にかけて、この淡水下流沿いに中国福建省泉州漳州府から多くの福建人が移民します。台湾島福建省の位置関係ですが、台湾海峡を挟んで非常に近い位置関係ではあるのですが、何故、台湾島に現れたのでしょうか?

(中国福建省の地図、赤丸が主要港。)

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中国元朝(1271年~1368年)の頃、既に福建省の中で泉州府と漳州府は最大港湾都市で、アラブ人やペルシア人も居住する国際都市でした。物語『アラビアンナイト』やマルコ・ポーロが書いた『東方見聞録』にもその地名が登場しますので、中世イスラム世界にも知られていた都市でした。

明朝(1368年~1644年)になると泉州府と漳州府は港湾都市としての機能が失われ、海上交易の中心地は南西の厦門や北東の福州に移ります。そのため、泉州府と漳州府では故郷を離れていくひとが続出します。のちにその様なひとを華僑(国籍は中国のまま)とか華人(国政を移民先国家にする人と呼ぶようになるのです。

福建省人全般の特徴ですが、「門里一条虫、門外一条龍」とよく言われます。家では小さな虫だが外では大きな龍になるとは直訳です。つまり、外の世界に強いと言う意味になります。極めて独立心が強く商売のためなら進んで異境の地を渡り歩く民族と言われています。

勤勉で苦労を厭わず冒険を好み適応能力が早い。勇敢で開拓精神を持ち合わせているのです。福建省籍華僑・華人は全世界160カ国以上に分散していて、その数は1000万人以上です。閩南人はビジネスの世界では有名なのです。

ところが、独立心旺盛なために厄介な民族性も持ち合わせています。同一地域単位でのみ交流するのです。そのために、同一地域外の閩南人(みんなんじん)同志や非閩南人としばしばいさかいを起します。これを『分類械闘(ぶんるいかいとう)』と言います。言わば、部族間闘争みたいなものです。

同郷移民が集団を形成し、他地方からの移民と利益が衝突した際に集団で対応する傾向があるのです。例えば、先発入植者と後発入植者間での田畑分配、灌漑水利権、寺廟建築の土地利用と宗教問題を巡り、同じ福建省出身でも漳州人と泉州人で、福建省出身閩南人と広東省出身客家人(はっかじん)とで衝突するわけです。

移住当初、漳州人と泉州人は同じ淡水河沿い上流の艋舺に移住していましたが、双方が諸問題でいさかいが絶えませんでした。やがて漳州人は艋舺地区を離れて同じ淡水河沿いの大稻埕へ移動しました。

淡水河沿い上流の大稻埕と艋舺の位置関係、その中間には緩衝地帯である台北府城が有った。)

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当時この辺りでは穀物・塩・樟脳・茶葉の取引きが盛んで、その荷物の積み地が艋舺と大稻埕に分離したわけです。そしてこの二か所から淡水河口付近まで小さな帆船(ジャンク船)で荷物を運んでいました。淡水付近で諸外国の大きな船に荷物を積み替えていました。

(米穀物・樟脳・茶葉に関して、別の機会にブログで取り上げたいと思います。)

 

(現在の大稻埕、ジャンク船が展示されています。左手は遊覧船。この付近は私のお気に入りのジョギングルートのひとつで夕陽も綺麗。)

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ところがここで問題が発生します。積み地のひとつ艋舺付近の河瀬に土砂が自然堆積してきて、帆船が係留できない事態になります。写真は現在の艋舺付近ですが、浅瀬に海水と淡水が混じりマングローブも密生する状態です。引き潮になると川底が現れます。

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泉州府出身者は、漳州府出身者の暮らす大稻埕に移住せざるを得ませんでした。その結果大稻埕に人口が集中して一大商業貿易中心地となったのです。逆に艋舺付近は徐々に廃れていくことになります。

イギリスを中心とした列強国も大稻埕に商館を建てて外国人居留地としました。船付き場には水兵を配備して警備させて治外法権区域としたのです。

 

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大稻埕が台北府の商業中心地となります。その近くには『迪華街』と言う老街が有ります。此処には閩南式・洋楼式・バロック式・近代式など様々な建築様式の漢人商館・倉庫が多数建てられました。

昔ながらの乾物屋さんやお茶屋さんや永楽市場も有りますが、お洒落な雰囲気のカフェやレストランも並んでいます。店構えをよく見ると、当時の様式がいまだに残されているのが分かります。

(1階が店舗、2階が居住区域。これはたぶん柱模様からバロック式?)

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 次回はこの辺りを賑わせた茶産業の歴史について書きたいと思います。

~ 続く ~