(第8回)台北府城と城壁の成り立ちについて

今回は台北府城とその城壁の成り立ちについて書きたいと思います。前回のブログでご説明した通り、19世紀になると中国大陸では欧州列強の進出が激しくなり、各地が租借される状況が発生します。

そのために、台湾島においても漢人役人及び住民保護と防衛上の観点から、1882年着工して2年を掛けて台北府城』を築きます。府城と言っても城ではなくて、東西(1km)南北(1.3km)で高さ5m幅4mほどの城壁で市内を取り囲んだ城郭都市です。当時の金額で20億両(約28億円)をかけたそうです。

(現在の地図に赤線で示したのが城壁範囲)

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ちなみに、私が嘗てサラリーマン時代に北京・上海・広州と駐在していましたが、度々陝西省西安に出張したものです。西安は唐の時代には長安と呼ばれていましたが、西域から来る異民族防衛のために、高さ20m、周囲20㎞を超える城壁が現存しています。

(2016年出張で陝西省西安へ、安定門と城壁。城壁の上は解放されていて1周ハーフマラソンした思い出の場所。)

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台北府城の城壁はそれほどの規模ではありませんが、淡水河沿いに発展した商業地域の大稻埕と艋钾(現在萬華)との中間地点にそれを建築しました。商業地帯で暮らす清国漢人と城内で働く清朝役人に対して有事が発生した場合、緊急的に逃げ込めるようにしたわけです。尚、この地帯は地盤が緩く竹林などで地盤を固めたそうで工事も大変だったようです。

現在で言うとその範囲は、北側は台北駅の前の忠孝西路から中山南路まで、東側は中山南路から中正紀年堂を過ぎて愛国西路まで、南側は愛国西路から台北市立大学を過ぎて中華路まで、そして西側は中華路から忠孝西路まで、の若干長方形の区域となります。

城壁には、風水の考えも取り入れて大屯山の向こうに掛かる北斗七星を基準にして、東西南北+1で夫々に門を構えました。そして夫々の門には名称が付けられ修復された門が現存しています。

 

東門(景福門)⇒鶏籠(基隆)へ続く要の門、ここから国立臺灣大学医学部付属病院のそばには城壁の痕跡が観られます。

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西門(寶成門)⇒日本統治以降に都市計画上の理由で唯一撤去(西門跡の痕跡)、現存してはいませんが、北門付近から新竹方面への伸びる鉄道線路の敷設が原因?

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南門(麗正門)⇒五つの門で最大規模、ここから愛国西路上の中央分離帯は嘗ての城壁であったことがよく分ります。

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小南門(重熙門)⇒世の中を繁栄させて明るく照らすという意味らしい、板橋林家関連者のみが通行を許された門。ほかの門に比較するとやや小ぶり。

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北門(承恩門)⇒ほぼ当時の姿のまま現存、中国及び海外からの賓客は必ずこの門をくぐる。台湾総督府軍が到着した際にもここから入城した。まっすぐ北は七星山(北斗七星)となる。

 

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小南門についてですが、この門だけは特別で、第5回で説明した福建省漳州市出身で艋钾で穀物と塩の交易で大きな財産を築いた財閥(板橋林家)が私財を投げうって自ら築城した門です。したがって、一般市民にはこの門を開放していなかったそうです。泉州人との分類械闘(部族間闘争)の際にもこの門から逃げ込んだそうです。

さて、台北府城の城壁ですが、西門と共に残念ながら現存していません。日本統治時代において、台湾総督民生長官後藤新平の近代都市計画に基づいて撤去されたからです。しかしながら、その城壁に使われた石材は、日本統治時代に建造された至る場所で再活用されています。

例えば、南門と小南門を結ぶ幹線道路沿いの中間にある上下水道設備には城壁の痕跡が観られます。中山南路沿いでは、付属台湾大学医学部医院のそばで城壁の痕跡が有ります。また、延平南路には『巡撫臺街洋楼』がありますが、この建築物には石材が利用されています。更に台北北警察署』『台北刑務所』の建物にも同様に再利用されています。

(下水道設備の基礎部分の城壁跡)

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台湾大学医学部付属医院裏門の塀に再利用)

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(1900年完成した大倉組(現大成建設)台湾出張所の洋楼、今でもセミナー会場とか展示場で使用されている。)

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 (台北北警察署の裏壁にも再利用された。)

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台北府城が欧州列強から攻め込まれることはなかったことは幸いでした。台北巡撫劉銘伝がその侵入を淡水港や基隆港で侵入を防いだからです。また、1895年明治政府軍が台北府城(北門)から入城した際にも無血入城でした。但し城壁建設から僅かに20年間、1904年に残念ながら撤去されます。

 

(1895年5月北白川宮能久親王が率いる近衛師団が無血入城を果たした北門通路。)

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次回はこの台北府城の城内における清朝の行政体制に関することです。