(第21回)中華民国北京政府から南京政府成立までの過程について
前回は大清帝国の滅亡について書きましたが、今日は中華民国(臨時政府)成立過程について書きたいと思います。
先ずは辛亥革命(第一革命)直後の状況ですが、1911年湖北省武昌と漢陽で勃発した革命の火は反清朝思想に同調した全国13省に拡大します。そして革命派は大清帝国から離脱を決めて独立をします。
一方、清朝政府も黙っていませんでした。北洋軍閥首領の袁世凱を総理大臣に据えて巻き返しを図ろうとしますが、袁世凱はこれを権力奪取の機会ととらえ、私利私欲で清朝政府と革命派の両方と駆け引きを始めます。
欧州列強はこの状況をどの様に見ていたのでしょうか?欧州列強は、圧倒的な軍事力を持つ袁世凱側を支援する方向に傾き始めて、大清帝国への支援を見限る国が続出しました。
この革命を始めた孫文はどの様な状況だったかと言うと、亡命先の米国でこの一報を聞き急ぎ上海へ戻ります。そして、1912年1月1日南京で中華民国建国を宣言して臨時大統領に就任します。
ところが軍事力を持たない孫文は支持基盤が脆弱で、欧州列強からの支援も得られません。仕方無く袁世凱に対して清朝宣統帝溥儀を説得して退位させる事を条件とし、臨時大統領の地位を譲ることを認めたのです。
そして、溥儀が退位した翌日、孫文は臨時大総統を辞任して袁世凱が中華民国大統領の地位を得たわけです。孫文としては先ずは革命遂行を優先事項としたのです。
曲りなりにも共和制国家がここに成立します。つまり古代殷朝時代から近代清朝まで継続した王朝君主制の終焉を意味します。
この後、袁世凱の北洋軍閥の圧倒的な軍事力を背景に独裁政治色が一層強くなります。本来、孫文としては南京に政府を樹立する予定でしたが、袁世凱は北京に居座り中華民国北京政府としました。
これに対して孫文は、南京で袁世凱と対立を深めていきます。袁世凱の独裁政治打倒を旗印に1913年再度武装蜂起して第二革命を起こします。但し、これは北京政府軍が孫文革命派に同調せず失敗に終わります。
居場所を無くした孫文は日本へ亡命します。1914年国民党を解体して中華革命党を東京で結成します。同時期に東京へ亡命していたのちの中華民国総統に就任する蒋介石も入党をします。また同時期に孫文は宋慶齢(のちの中国共産党名誉主席)と結婚します。
(若き日の蒋介石)
なお、孫文には梅谷庄吉という映画産業でひと財産を築いた商人が多額の資金援助及び武器供与をしています。宋慶齢との仲立ちをしたのも梅谷庄吉と言われ中華民国革命に共鳴して協力した人物でした。
蒋介石は孫文から高い評価を得ていました。革命方針の意見相違により何度も合流と離脱を繰り返しますが、結果的には、蒋介石が孫文の遺志を忠実に守り、やがて中華民国を引き継ぐことになります。
さて一方で、袁世凱はどうしていたのでしょうか?中華民国北京政府での政治運営に行き詰まっていた袁世凱は、1915年共和制を廃止して帝政を復活させます。自らを中華帝国大皇帝と称しました。孫文は直ちに反袁世凱・反帝政の第三革命を展開します。
同年には大日本帝国(大隈重信内閣)は中華民国に対する利権拡大となる『対華二十一か条の要求』を提示します。この主たる要求は、南満州・内蒙古・山東省における日本の権益に関する内容でした。のちの満州国建国、満州鉄道敷設、関東軍暴走に起因する重要な要求内容となり、泥沼化する日中戦争への序曲となります。
そして袁世凱は二十一カ条要求を全面的に受諾したことにより、更に中華民国世論の反感を買います。失意の中で1916年袁世凱が病死します(死因:尿毒症、享年:56歳)。袁世凱の死後、中華民国北京政府は北洋軍閥内部での対立が表面化します。
中国各地に跋扈していた軍閥が群雄割拠しました。特に北洋軍閥の流れを汲む張作霖が東北三省(遼寧省・吉林省・黒竜江省)を地盤に奉天派として力を付けてきました。
再度になりますが、映画『The Last Emperor』ではこのように描かれていました。
1924年既に清朝皇帝を退位していた廃帝溥儀一族は、張作霖(奉天派)の軍事クーデタにより突如紫禁城を追われるように日本の関東軍に守られて天津へ脱出します。そのため中華民国北京政府の主権は張作霖(奉天派)が掌握することになります。
(東北三省の馬賊出身、阿片密売で成り上がる。児玉源太郎に見出されてロシアへのスパイ活動で日本へ情報提供していた時期もある。満州王。)
1925年孫文は遂に北京協和病院で逝去します(病名:肝臓癌、享年:58歳)。近代革命先駆者として、歴史に名前を残し『国父』として崇められました。次の様な有名な遺言(総理遺嘱)を残しました。
『革命尚未成功、同志及須努力』
革命未だ成らず、同志須く(革命邁進へ)努力するべし!
実はこの遺言、後に蒋介石とライバル関係になる汪兆銘が起草して、病床の孫文が了承したものだと言われています。
孫文の遺骸は北京から首都南京へ搬送されました。私は嘗て何回か行ったことがありますが、500段近い階段の小高い上の中山陵に葬られました。日本へ幾度も亡命した孫文ですが、日本でも盛大に葬儀が執り行われました。東京芝増上寺での葬儀には後藤新平(当時拓殖大学総長)も列席しています。これも台湾との縁と言えます。
(江蘇省南京市中山陵、孫文の遺骸は石棺に納められています。当時の葬儀風景。)
(2015年上海駐在時代、私が居住していた上海古北のそばに宋慶齢の墓地が有りました。夫婦別々。)
孫文亡き後、中華民国政府内でいよいよ蒋介石が台頭してくるわけです。孫文の遺志、つまり北京政府打倒及び北洋軍閥撲滅を目指して、1926年北洋軍閥打倒作戦(北伐)を開始し怒涛の勢いで進軍を始めます。
そして上海など主要都市も掌握した結果、1928年念願の中華民国(南京政府)が樹立されますが、まだまだ中国国内が完全統一されたわけではありません。
満州一帯の占領を目論む日本の関東軍とは、一定の距離を保ち権益も半ば認めながらも睨み合いが続きます。ロシア革命を推進したウラジミール・レーニン死後、中国共産化を目指すヨシフ・スターリン率いるソビエト社会主義共和国連邦とは、中ソ紛争が激しくなります。それに同調する毛沢東率いる共産党軍が活発化します。
満州の関東軍、中ソ国境のソ連軍、そして、毛沢東率いる共産党軍が三つ巴とも四つ巴とも言える混沌とした時代へ移行します。北伐したとはいえ地方軍閥勢力も残存していました。
1928年張作霖は満州奉天(現瀋陽)で関東軍による暴走と策略により爆死(満州某重大事件)します。もはや張作霖は関東軍にとって使い物にならない邪魔者になっていたのです。そして1931年満州事変を勃発させ関東軍は完全に東北三省を確保します。
息子張学良は父親の軍閥を引き継ぎますが、のちに蒋介石が拉致・監禁される大事件(西安事件)を1936年陝西省西安(華清池)で起こします。国共内戦停止と抗日民族統一を掲げるためでした。
余談ですが・・・
この西安事件をスクープしたのは日本人の著名ジャーナリスト松本重治氏(当時同盟通信社上海支社)。私の故父親の学友でもあり親友だった方の父上様で、氏より直接お話を伺ったこともあります。
(陝西省西安華清池は、唐の玄宗皇帝が楊貴妃のために造った温泉保養地。この温泉に浸かったとされる浴室史跡もある。2016年西安を訪れた時の写真。赤丸が蒋介石拉致時に張学良派兵士から射撃された弾痕跡。)
(華清池の蒋介石寝室、1936年12月12日未明に強襲され裏山へ逃げた。のちに共産党周恩来の会談で国共合作が成立した。)