(第12回)台湾の土台を作り上げた男(後藤新平)について

いよいよ大日本帝国の台湾統治時代となるわけですが、この時代を語る時に後藤新平なくしては有り得ません。今回は、台湾の土台を作り上げた男(後藤新平についてです。そして何故、台湾でそれほどまでに都市造りに強いこだわりを持つ様になったのかを探ります。

 

台湾総督府民生長官、満州鉄道初代総裁、逓信・内務・外務大臣東京府市長など数々の輝かしい職務を歴任した後藤新平。)

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1857年陸奥国仙台藩(現岩手県)の生まれです。明治維新10年前の頃で、日本では日米通商条約井伊直弼により結ばれ、その結果、攘夷派排除のため安政の大獄が始まり、中国ではアロー号戦争が勃発する頃です。

後藤は江戸時代の蘭学者高野長英の遠縁にあたり、その影響で医学を志しました。医師としては、1882年岐阜市内で板垣退助自由民権運動の演説後、暴漢に短刀で襲われ、愛知県病院院長であった後藤に手当を受けています。

「板垣死すとも自由は死なず!」と言う名言に対して、「板垣閣下、御本懐でございましょう。」と対応したという逸話があります。後に、台湾での公民運動への支援のため台湾を訪れた板垣ですが、後藤の建てた台北鉄道ホテルがお気に入りの定宿だったようです。この台北鉄道ホテルについては別の機会に書きます。

 

(数年前にマラソン大会で訪れた岐阜、板垣退助が暴漢に襲われた岐阜城城下)

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さて、前回のブログで台湾総督初代総督樺島資紀が、台湾民主国清朝軍残党を制圧、全島平定して近衛師団及び明治政府軍が無事に無血入城したことを書きました。ところが、ここからが先住民族(原住民)と融和するまでの長い道のりとなるわけです。

日本の台湾統治時代(約50年間)の歴史で、19名の台湾総督が歴任しました。その内、10名が軍官人(陸軍:7名、海軍:3名)、9名が文官人となります。統治開始から3代まではインフラ整備も整わない中で、先住民族との闘いと風土病など厳しい居住環境での生活となり、就任期間は比較的に短期間でした。

第4代台湾総督児玉源太郎から本格的な植民地経営が始まったと言っても過言ではありません。そして児玉を全面的に支えて都市計画と財政基盤づくりをしたのが、台湾総督府民生部長官に児玉から抜擢されたのが後藤でした。

 

(第4代台湾総督府総統 児玉源太郎日露戦争では満州軍総参謀総長も兼任。後藤には絶対の信頼をおいていた。長州藩支藩徳山藩の出身。)

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1895年医局長長官を勤めていた後藤ですが、当時陸軍事務次官であった児玉と広島宇品で出会います。宇品には軍港があり、日清戦争中には此処が広島大本営として明治天皇も東京から居を移した臨時首都でもあったのです。そして、この宇品港から朝鮮半島や中国大陸へ軍人が出兵し、あらゆる軍事物資も此処から運ばれた補給(兵站)基地でした。

 一方で日清戦争が行われた朝鮮半島や中国大陸では伝染病が大流行していました。戦争末期前後からコレラに罹った状態で帰還する兵士が続出していました。このため広島市内でも同様にコレラ患者が拡散していました。

なかでも大本営参謀総長有栖川宮熾仁親王が広島で発症した腸チフスが原因で崩御される事態になりました。この状況打破のために戦争帰還兵に対して伝染病の検疫・消毒を行うため大検疫所設置を決定したのです。

 

有栖川宮熾仁親王、幕末時代に和宮内親王との婚約が徳川家茂への降家により解消された悲劇の皇族でもある。)

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この大検疫所創設と現場指揮を執ったのが若き後藤でした。1895年6月、宇品港から数kmの沖合にある似島(にのしま)に臨時陸軍似島検疫所(第一検疫所)を設けました。後藤の肩書は、臨時陸軍検疫部事務局長でした。

(検疫部事務局長 後藤新平

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なお、この似島には日露戦争以降に第二検疫所、第一次世界大戦時に捕虜収容所、更に日中戦争時には軍馬用馬匹検疫所も拡充されました。広島原爆投下時には爆心地から離れていたこともあり、被爆者の救護場所にも使用されました。

感染症拡大を抑え込むのは容易なことではありません。しかも抑え込むためには、水際での対応がいかに重要であるかは、今回の新型コロナウィルスでもお分かりの通りだと思います。

日清戦争終結して、コレラチフスが蔓延していた朝鮮半島からの帰還兵士23万人をいかに検疫・消毒するかの大事業だったわけです。ある意味で戦争を始めるよりも、如何に無事に戦争を終結させるほうが遥かに難しいのです。

後藤に課せられた任務は「速やかに検疫を遂行せよ」でした。しかし世界中の近代国家で、これほど大規模な軍隊帰還を経験したところは過去になかったのです。前代未聞の水際作戦に後藤は挑むことになります。

敷地2万3000坪に消毒部14棟、停留舎24棟、隔離病院16棟、さらに事務所、兵舎、炊事場、トイレなど139棟を僅かに2か月間弱の突貫工事で建て、そして、不眠不休での消毒・検疫作業を3か月間続けて大検疫事業をやってのけました。その間検疫した帰還兵数:23万2346人、検疫船舶数:687隻だったそうです。

 

(帰還兵士軍服と持参品の消毒風景)

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この年の日本のコレラ患者数は5万5144人で、4万154人が亡くなっています。日清戦争コレラを流行らせたわけです。もし大検疫事業が実施されていなかったら、死者数はどこまで増えていたか想像もつかない事態になっていたはずです。

後藤は水際での検疫・消毒対策には限界が有ることも理解します。細菌による伝染病の蔓延を防ぐためには、都市環境衛生・上下水道整備・道路や建築物設計など都市造りが重要であるとの思いを強くしたのです。この思いは、台湾総督府民生部長官に就任した時に経験として生きて、そして強いこだわりと信念を持つ様になります。

 

次回から第18回までは後藤が進めた台湾総督府統治における殖産興業の紹介をしていきたいと思います。

 

~ 続く ~