(第13回)民生長官後藤新平の都市計画とインフラ整備などについて

1898年陸軍中将第3師団長であった児玉源太郎は第4代台湾総督府総督の拝命を受けました。前回ご紹介した通り、日清戦争終了時に広島宇品港で臨時陸軍検疫部部長だった児玉により朝鮮半島からの帰還兵士の消毒・検疫の大事業を遂行した後藤新平台湾総督府民生部長官に抜擢されました。

 

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この年から1906年までの8年間、児玉と後藤コンビで台湾における行革・インフラ整備・都市計画・殖産興業・財政政策・学校教育・医療分野で土台造りを成し遂げ、先住民族との融和を図りました。

 

日露戦争(1904-05年)時には、児玉は台湾総督兼任で満州軍総参謀長として満州へ渡りました。旅順要塞(203高地)攻防では乃木希典を助けて、遼陽会戦(遼寧省遼陽)・奉天会戦遼寧省瀋陽)で総司令大山巌元帥を補佐した名将です。

 

児玉は有能な陸軍軍人でしたが、台湾総督にもこだわり続けて世界各国の植民地経営を非常によく研究していました。そのため台湾経営ではどうすればよいのかを理解していました。そして、有能な人材の意見を聞き、身分を問わず採用したのです。その意味で、児玉の右腕になる有能な後藤に植民地経営を全面的に任せたわけです。

(後年の後藤新平)

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後藤も児玉の意向に十分応えて、行革・インフラ整備・都市計画・殖産興業・財政政策・道徳教育・医療などの各分野での計画立案して、その分野に最適な専門家を次から次へと招聘して強力に遂行していきます。

 

最初に手掛けた仕事が行革断行、所謂、余剰人員削減(リストラ)です。台湾総督府成立以来、日本最初の植民地経営でしたので、無駄な行政関連に役に立たない余剰人員が発生しました。その結果、行革で1千名以上が罷免され本土へ戻されました。その余剰人員削減で浮いた経費で各分野のエキスパートを高給で採用します。

 

また、日本本土と違う生活習慣を強制的に禁止するのではなく、徐々に消滅していく方針としました。例えば、阿片吸引です。

「貴国も台湾統治では阿片問題できっと苦労されますぞ」

とは下関条約締結時に李鴻章伊藤博文に語った言葉で、公式議事録にその記述が残されているそうです。

 

既に吸引している阿片吸引者の登録制度を採り入れ、新規吸引者は認めませんでしたそして、阿片吸引者を徐々に減らしていく方針でした。阿片を樟脳・酒・煙草を専売局対象品目としました。

専売品(樟脳)に関しては、別の機会にアップしたいと思います。取り扱う酒・たばこ・樟脳と同様にして、徐々に吸飲者を減らす方針で根絶させたのです

 

後藤に招聘された各分野でのエキスパートとしては、例えば下記のような代表的な人物がいました。

 

・農業分野:新渡戸稲造砂糖の父)

⇒第14回(予定)をご参考ください。

  総督府殖産局赴任。サトウキビ(甘蔗)の栽培と研究により、糖業を一大産業の礎を 築いた。糖業の民間企業化による収入が台湾総督府の財政支柱となる。

 

上下水道浜野弥四郎上下水道の父)

⇒第16回(予定)をご参考ください。

  総督府民生部土木局赴任。衛生インフラ整備事業を担当。風土病撲滅の為に都市衛生状況、都市計画調査を実施。台湾主要16都市の上下水道事業(水源調査、取水場・浄水場・濾過装置・上下水道の整備計画)に携わる。

 

・鉄道分野:長谷川謹介河合鈰太郎阿里山開発の父)

長谷川:総督府台湾鉄道敷設部赴任。台湾縦貫線台湾海峡に沿い基隆駅から高雄 駅)の計画、指揮。

河合:阿里山森林資源の開発と阿里山森林鉄道(ルート選定とスパイラルループ方式)の建設提唱。

 

・医学分野:高木友(台湾医学界の父)

⇒第17回(予定)をご参考ください。

台湾総督府医学校赴任。医学校校長、台湾電力社長歴任。医学教育、医療行政の礎を築いた。台湾人向け初医学専門学校と付属病院(のちの台湾大学医学部付属病院)に尽力、また、台湾人医学生による民族自決運動に理解を示した。

 

・港湾分野:浅野総一郎(高雄港湾の父)

 高雄湾埋め立て工事、高雄山の石灰石でセメント製造、高雄湾築港工事

・土木分野:八田與市(嘉南大圳の父)

⇒第23回(予定)をご参考ください。

総督府内務局土木課赴任。衛生事業、上下水道事業(上司は浜田弥四郎)、発電・灌漑事業に携わる。特に台南地域の烏山頭水庫(ダム)と灌漑用水事業に貢献した。

 

・設計分野:藤十郎

  台灣総督府営繕課赴任。西門紅楼、台大醫院舊院、建国中学など。

・設計分野:松崎萬長 

⇒第18回(予定)をご参考ください。

台灣總督府鉄道局赴任。台灣鐵路管理局鉄道部、新竹火車站、鉄道ホテルなど。

中には直接的に後藤から招聘されていない人物もいますが、いずれにしても台湾発展の歴史の中で輝かしい金字塔を打ち立てた人々です。

 

児玉源太郎後藤新平の二人が台湾統治時代のあらゆる土台造りをしたことには間違いありません。1915年、二人の業績を評して銅像台湾総督府博物館/児玉後藤記念館(現国立臺灣博物館)に建てられました。現在でもその銅像を見学できます。

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 (右手:児玉源太郎、左手:後藤新平、設置当初は1階ロビーの東西に夫々置かれていたとのことです。)

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 (天井ドームにはステンドグラスが施されている。児玉と後藤両家家紋からデザインされているとのこと。)

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