(第2回)台湾における日本統治終焉と日華平和条約について

第1回は台湾と日本の最初の歴史的接点の『牡丹社事件』を取り上げました。第2回は、いきなりですが、台湾における日本統治の終焉について取り上げます。

1894年日清戦争での勝利により、明治政府として初めての植民地を得た場所が台湾島と澎湖島となります。(遼東半島は後に三国干渉により清国政府へ返還します。)そして、1945年日本が先の大戦での敗戦で約50年間の台湾統治が終焉を迎えます。

1945年8月15日ポツダム宣言を無条件受諾して第二次世界大戦は休戦となります。しかし、正式には9月2日米国船籍戦艦ミズリー号での休戦協定が連合国と日本との間で交わされた正式な降伏文章調印となります。

一方、統治していた台湾では、どのような過程を辿っていったのでしょうか?同年10月25日『台北公会堂(現在の中山堂)』で日本の台湾撤退に関する降伏調印式が挙行されます。『中国戦区台湾省降伏受諾式典』が正式式典の名称です。

 

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実際に現在の中山堂を見学してきました。統治初期の建築物、例えば総統府や専売局に見られるような古代ギリシャ・ローマ風レンガ作り、所謂、辰野金吾式ではありません。外観は鉄筋コンクリート構造で現代的な左右対称な造りです。

この建物は、昭和天皇の即位記念事業の一環として企画されたもので、1932年から4年を掛けて建築されました。耐震・耐火・耐風の堅固な構えの地上4階建てです。車寄せ・正面ロビー・階段・柱・廊下・照明・窓枠は当時のままで、天井の曲面は高く、内外壁には大量の磁器タイル張りや幾何学的模様の装飾彫りが施されて往時を忍ばせてくれます。外観がモダンな造りに対して、内観は日本式・中国式・アラブ式など多種多様な様式を採用しているのが特徴です。

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日本の建築技術の粋を集めた場所で日本統治終焉を迎えることになります。降伏調印式は2階大宴会場(光復廰)で行われました。日本側代表は第19代総督陸軍大将安藤利吉、中華民国代表は台湾省行政長官陳儀でした。後に二人とも悲劇を迎えます。安藤利吉は中華民国政府の召喚で上海へ連行後牢獄で服毒自決します。陳儀は国民党から共産党への転向企てが密告露見されて台北馬場町(現在の青年公園)で銃殺刑されます。

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台湾島や澎湖島内では、既に8月15日前には中国大陸からのラジオ短波放送で日本軍の全面降伏の噂が流れていました。15日の天皇玉音放送後も安藤利吉総督からこれまでの台湾統治に対する島民全員への感謝の意と敗戦による混乱を招かないように日本人として努めて冷静に対処して欲しいとの通達があったそうです。

そしてこの日、降伏文章が日華双方で取り交わされた直後に、現在の228和平公園内に有る台北ラジオ放送局を通じて次の様な声明文が陳儀より発表されました。

台湾島及び澎湖島は正式に中華民国の領土となり、すべての土地と住民は中華民国国民政府(国民党南京政権)の主権下におかれる。」

明治新政府台湾島と澎湖島を植民地として占領した際に、先住民の国籍に関しては、2年間の猶予を以て決めた経緯があるのですが、この場合には選択の余地が無かったのです。

(228和平公園内にある当時の台北ラジオ局跡)

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民間企業や専売局は中華民国へ接収されたわけですが、その運営に必要な一部の日本人技術者(とその家族)の台湾在住延長は認められましたが、一般の日本人は2千円の現金と身の回りの物のみの携帯が許可されての帰国となったそうです。

そして遂に日本の台湾統治が形式上では終了したわけですが、実際上の手続きプロセスは違います。対連合国との降伏文章調印はあくまでも休戦協定なのであり、戦争状態を正式に終了させるためには国際法上では『平和条約締結』が必要なのです。

 

終戦から6年後、1951年『サンフランシスコ講和会議』の平和条約締結で正式に休戦状態から終戦状態となります。そして、この平和条約を批准した国が日本国としての国家主権を承認したことになります。

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ところが、ここで面倒な事態が起きます。中華民国がこのサンフランシスコ平和講和会議に召集されないという問題が発生するのです。ちなみに、ソビエト連邦(当時)は会議に出席しましたが、平和条約には署名しませんでした。だから現在ロシアとは未だに休戦状態なわけです。

何故、中華民国が講和会議に呼ばれなかったのか?終戦直後から中国大陸の状況が一変します。1949年国共内戦に勝利した共産党軍は中華人民共和国を成立、内戦に敗北した国民党軍は台湾に中華民国を成立させました。そのために、どちらを正式な中国代表国家として認めるか連合国でも意見が一致しなかったのです。結局、中国代表としては、両国共に招聘されない事態となったのです。

台湾統治していた日本もこのまま休戦状態では困るわけです。結果的には、日中間の講和条約は日本独立後に一任された形になりました。当時の首相吉田茂アメリカが中華民国を中国代表として認めたので、独立翌年1952年台北賓館で日華平和条約締結しました。紆余曲折ありましたが、正式に戦争終結となります。この締結によって日本は台湾に関する一切の権利を放棄、そして中華民国は賠償請求の棄却が決定されました。日本の民間企業の多くが台湾への投資(会社や工場)をこの放棄により、中華民国に接収されることになりました。

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ところで、歴史にもしもは禁句ですが、1940年前後の中国大陸の状況が中華民国(国民党軍)が共産党軍より優勢であったとしたら、台湾はどうなっていたのでしょうか?

時代はポツダム宣言から2年遡って、1943年にカイロ宣言が出されます。中華民国国民党軍と共産党軍との内戦で混沌としてきた時期です。米国大統領フランクリン・ルーズベルト、英国首相ウィストンチャーチル中華民国主席蒋介石の3者がエジプトのカイロに一堂に介して、戦後の取り決めを話し合った宣言です。この会談で初めて日本降伏と台湾島と澎湖島の中華民国への返還に初めて言及しています。

カイロ宣言の一部抜粋)

・・・日本國ガ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト竝ニ滿洲、臺灣及澎湖島ノ如キ日本國ガ清國人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民國ニ返還スルコトニ在リ・・・

 

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中華民国と米国そして英国の夫々の思惑が違う中での会談でした。米英は日本を全面降伏するまで徹底的に叩き潰すことを策略した会談でした。現に広島と長崎に原爆まで投下したのですから。

一方で蒋介石は日本との戦争よりも毛沢東主席との国共内戦を危惧しており、日本と単独講和に持ち込むことで日中戦争に決着を付ける策を模索している状態でした。正直、中国東北地方(満州)と台湾島と澎湖島には興味がありませんでした。

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蒋介石夫人で英語が堪能な宋美齢も同行していましたが、二人は米英の中華民国国民党政府軍を全面支援すると言う口車に乗せられて、日本との単独講和の道は閉ざされてしまいます。日本と中華民国カイロ宣言以前に日中戦争単独講和を締結していたら、或いは、国共内戦中華民国が勝利していたら、日本は台湾から軍隊を撤退させるにしても、台湾島と澎湖島を放棄する必要がなかったかもしれません。

恐らくその場合、台湾島と澎湖島は連合国支配となり沖縄と同様に米国軍駐留を許していたでしょう。そして数十年後には『台湾島と澎湖島の日本返還』となった可能性も有ったかもしれません。ちなみに、沖縄返還は1972年でしたね。

 

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