(第20回)辛亥革命と清朝滅亡について

前回のブログで日本の台湾統治時代は1920年代に突入してしまいました。今回は少々時間を戻して、辛亥革命清朝滅亡の過程に関することを書きたいと思います。このブログは、本来台湾歴史に関する事を主題に置いていますが、中国大陸での清朝滅亡により成立する中華民国(臨時政府)がその後の台湾の歴史に大きく影響してきますので、少々お付き合いください。

さて17世紀から19世紀前半までに異民族(満州族)王朝の清朝は直轄地・藩部・朝貢国を含めて巨大な領土となりました。ところが、19世紀中期以降、欧州列強国の帝国主義植民地主義)によりアジア地域、とりわけ中国大陸各地の租借を虎視眈々と狙い始める状況となったのです。

(1908年前後の清朝領土範図)

 

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欧州列強国が日本も巻き込み清朝と度々戦争を起こします。1840年阿片戦争に始まり、1860年アロー戦争1884年清仏戦争、1895年日清戦争と続き清朝は敗北を重ねます。しかし清朝も手をこまねいていたわけではありませんでした。

アロー戦争敗北後から欧州列強国の更なる侵略に対抗するため、清朝軍隊を旧式軍隊から西洋式化を図りました。これを洋務運動と言います。但し、腐敗した清朝漢人官僚を頂点として儒教思想の旧態依然の政治体制をそのまま維持する思想でした。そのため日清戦争での敗北で洋務運動はもはや限界でした。

諸外国との戦争敗北による賠償金負担を始め、西太后清朝自身の膨大な浪費と借金、清朝漢人官僚堕落や汚職も次々に暴露されます。『眠れる獅子』とも恐れられてた清朝も案外脆いことが判り始めたのです。

(晩年頃の西太后、爪にご注目!)

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そんな清朝漢人官僚の中にも、日本の明治維新の様に徳川幕府から脱却して天皇中心の立憲君主制による政治改革と同様な革命が必要だと認識する先進的な漢人官僚(康有為や梁啓超清朝皇帝(光緒帝)もいました。

この革命(戊戌の変法)を起そうとしますが、西太后を中心とした保守派に鎮圧されてしまいます。そしてその鎮圧協力したのが袁世凱でした。この功績により、西太后から山東順撫に任命されます。清朝官僚でもない一軍人が大出世です。

("私利私欲の男"と言われた袁世凱

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 日清戦争の敗北で、欧州列強からの三国干渉により一時的には助けらえたものの、結局ロシアに遼東半島最先端(旅順口)、ドイツに山東半島膠州湾(青島)、フランスに広州湾を夫々租借地として提供する羽目になります。

軍事的侵略による租借地化だけではなく、宗教面でも侵略の影響が出ます。軍隊と共に多くのキリスト教宣教師が布教活動にやって来ます。清朝としては少々面倒な問題です。儒教・仏教・道教が三大宗教でしたが、特に儒教の教えは重要でした。儒教の祖孔子の故郷は魯で今の山東省青島辺りです。ドイツはその山東省を租借しました。

1900年山東省でキリスト教布教活動を反対する集団が扶清滅洋清朝を助けて欧州列強を潰せ)を合言葉に立ち上がります。所謂、義和団事件(北清事変)です。山東巡撫に任ぜられていた袁世凱は、地元の混乱に義和団鎮圧に当たります。

 (義和団は別名白蓮教、棒術・武術・剣術に優れた辮髪武装集団でした。)

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一方で清朝西太后の支持を得た義和団は、山東省から天津と北京へ北上を始めます。これに対して、諸外国は大使館及び領事館保護・居留民保護・キリスト信者殺害を名目に、8か国連合軍大日本帝国、ロシア、イギリス、フランス、アメリカ、ドイツ、イタリア、オーストリア)は軍隊を北京へ派遣します。

(オランダがちゃっかり加わり8+1か国。一番右側が大日本帝国兵士。明治時代の男性平均身長157cm。帝国陸軍は連合国の中でも距離的に近かったこともあり、8千名というう最大人数を派遣した。)

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袁世凱軍隊(北洋軍)はさすがに8か国連合軍には勝てないと判断して、清朝西太后の命令にも従わずに日和見主義を決め込みました。北洋軍と領土保全のために諸外国と密約を交わしたのです。逆に清朝正規軍隊は壊滅状態で敗走をします。

義和団事件時に、北京から長安陝西省西安)へ逃げていた光緒帝と西太后ですが、1908年相次いで崩御します。西太后は死の直前に僅か3歳の宣統帝溥儀の即位を遺言に残しますが、清朝はもはや末期状態でした。

(弟溥傑と共に、大日本帝国に世話になった溥儀)

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 ところで、清朝最後の皇帝である愛新覚羅宣統帝溥儀の生涯を描いた『The Last Emperor』は好きな映画ですが、その中のワンシーンを思い出します。

 1911年湖北省武昌と漢陽で反清朝孫文革命思想に共鳴した革命軍が辛亥革命を起した結果、この革命が全土13省に拡がりを見せます。ある時黄色い服(従来は皇帝のみが着られる色)を身に着けていた弟溥傑に対して皇帝である(あった)兄溥儀が注意します。これに対して弟溥傑が「貴方はもはや皇帝ではないのです。」と言うシーンが有ります。

1924年テニスを興じていた溥儀一族は、踏み込んで来た張作霖の直隷派から紫禁城を追われるように日本の関東軍に守られて天津へ脱出するのです。その後、溥儀は故郷である中国東北地方に満州国の再建を夢みます。映画ではこのように描かれていました。

史実としては、1912年この時を以て皇帝溥儀は退位、1644年から268年続いた大清王朝は遂に滅亡します。そして中華民国が成立するのです。但し、この時点で正式には臨時共和国政府です。臨時共和国の拠点をどこにするか、大統領を誰にするか未決定だったからです。

本筋で言えばこの革命を指導した孫文(中山)が共和国大統領に就任するはずでしたが、亡命先の米国先から上海へ帰国途上でした。一方で、清朝最後の皇帝溥儀を紫禁城から追い出す(退位)交渉役は、本来清朝側北洋軍首領の袁世凱でした。

この微妙な二人の立場により、臨時共和国政府の運命が変わります。次回は中華民国北京政府と南京政府の成立に関して書きたいと思います。

 

 

(第19回)台湾統治時代に於ける警察組織と民主化運動について

今回は台湾における日本統治時代の警察組織と台湾人の民族自決主義に関連して書きたいと思います。

以前ブログにも書きましたが、台湾総督府における台湾統治時代(約50年間)の歴史で、合計19名の総督が誕生しました。10名が軍官人(陸軍:7名、海軍:3名)、9名が文官人となります。

特に初代(1895年)から第7代(1919年)までは、先住民族との争いを無くして日本人を受け入れさせて融和を図ることが先決でした。時に飴と鞭で軍事的行動も不可欠でした。そのため軍官人が総督になる必要がありました。

日本人を受け入れられる様になると、次に天皇陛下の皇民として、台湾人に対して日本語・道徳・文化・風習を本土と同様に徹底教育する(内地延長主義)統治段階となります。つまり、台湾人を日本国民として教育すると言う同化政策を推進させます。

これを進めたのが第8代文官総督田健次郎です。台湾人と日本人との差別を減らすために、地方自治拡大の総督府評議会設置、日台共学制度、共婚法公布、日本語学習などが同化政策(台湾人の日本人化)です。但し、植民地政策として完全な差別撤廃ではありません。

一方でこれを強力に推進するためには、軍隊よりも便利な組織が必要となります。それが、警察組織です。1895年日本が台湾統治を始めた直後に台湾総督府警保課なる部門が設置されています。翌年には各県庁に警察課ができ、その下の各地方には警察署(或いは派出所)を置きました。1919年には台湾総督府警務局が発足されて、全国に警務体制が整いました。

当時台北市内には15か所の警察署と派出所が有りましたが、台北北警察署もその一つでした。1920年台北市北部の治安維持管理のため蓬莱町(現寧夏路)に設立されました。

(当時の台北北警察署)

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ところで、1920年と言えば民族自決主義が世界中で叫ばれた時期と重なります。第28代米国大統領ウィルソン民族自決主義を十四個条の平和原則の中で訴えました。

民族自決主義とは、欧州列強などの帝国主義により他国領土や植民地になることで、民族が奪われた自立権利を取り返すこと。民族は自己の政治的運命を自ら決定する権利を持つべきこと。他民族干渉は許すべきでないこと。と言う主義です。

(第28代米国大統領ウィルソン)

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当時、東京には台湾から来日した大勢の大学留学生がいました。折しも大正デモクラシーの影響で、留学生の一部知識層が中心になり日本の台湾統治方法に反対したり、政治集会や出版活動を通じて台湾人アイデンティティーを日本から台湾民衆に訴える運動が発生します。政治集団『新民会』、機関誌『台湾青年』や『台湾民報』が有名です。

 機関誌『台湾青年』は、当時の台湾内大学生の間で密かに回し読みされていましたが、台湾総督府警務局が出版物を規制・検閲・干渉始めたため、台湾への持ち込みが徐々に厳しくなります。

そのため、台湾内部独自発行の機関誌が『台湾民報』です。そして、それを進めた人物が渭水です。蒋渭水宜蘭懸出身、1915年台北医学校(現台湾国立大学医学部)を卒業しました。

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(台湾人の唯一の言論機関誌と謳っている。)

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この医学校のことは前々回のブログで説明しました。医学校校長高木友枝は台湾民主化には非常に理解が有り、蒋渭水は高木から強い影響を受けたひとりでした。医学校卒業後、太平町(現延平北路)に大安医院を開設しました。

渭水台湾の社会問題、改革方法を議論する集会を開催しながら、議会設置請願運動を起し、文化協会も設立提唱しました。台湾人による初の労働組合や政党(台湾民主党)設立に寄与した公民運動のリーダーでした。

同化政策を進めていた台湾総督府としては、先進文化に未熟だった台湾人とやっと融和を図り、日本人皇民として差別をなくした教育を施してきたつもりでしたが、民族自決の意識に目覚めて民主化運動を始めたわけですから困惑したはずです。

 

警務局としては、極端な政治活動に対しては取り締まらないわけにはいきませんでした。渭水は1923年治安警察法違反で禁固4ヶ月、1925年台湾総督府批判を理由に禁固4ヵ月で北警察署に拘留されています。

(旧台北北警察署と留置場跡、台湾新文化運動紀念館としてリニューアルされた。当時の写真と比較して頂きたい。)

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(蒋渭水公園の銅像、非暴力を掲げて医療用白衣と鞄を携えている。)

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自ら創設した台湾民衆党の党是は孫文三民主義でした。やがて労働運動や農民運動に発展していきますが、1931年総督府により強制解散させられます。十数回にわたって逮捕・拘留で健康を害したのか同年腸チフスで命を落とします(享年40歳)。

(蒋渭水記念館、同人機関誌の旧印刷会社)

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「同胞須団結、団結真有力(同胞は須らく団結すべし、団結こそが力なり)」という遺言を残しました。そして、市民葬が営まれ、蒋渭水の思想に共鳴した多くの市民が参列したそうです。

 

(第17回)日本統治時代の台北医院と医学校について

今回は日本統治時代の台北の医療関連について書きたいと思います。前回ブログで台北市内の上下水道設備建設のために英国人バルトンと浜野弥四郎が源水地を懸命に探していた同時期、台北市内では様々な疫病が発生していました。

特にペスト(中国語:鼠疫病)に関しては、1896年台湾で初めてペスト発生を確認しました。中国厦門から伝染したと言われています。ペストとは、ペスト菌感染により起きる感染症で、症状は発熱・脱力感・頭痛です。ネズミなどの野生動物やそれに付着する蚤(のみ)を媒介して感染します。感染した場合、致死率は60%~90%に達する恐ろしい病気です。

 中国元朝モンゴル人が中世ヨーロッパへ遠征した際にペスト菌を持ち込んだと言われています。世界的に流行(パンデミック)して、1億人もの死亡者を出しました。ペストは血管が黒く爛れるので、別名で黒死病とも言われますが、原因は不明なまま1894年に中国南部で突如再発生して香港でも大流行したのです。

当時は日清戦争直前でもあり香港と日本とは交易も盛んでした。そのため日本への伝染を危惧した明治政府により、伝染病予防と細菌学に取り組んでいた北里柴三郎高木友枝(ともえ)ほかを調査団として香港へ急遽派遣しました。

(ドイツ コッホ細菌研究所留学時代の北里柴三郎(右端))

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香港到着後、感染して死亡した患者を解剖した結果、数日で血液中からペストの原因であるペスト菌を見つけ出します。北里はその場でペスト菌に関する論文を書き上げて世界的な大発見となります。

香港へ一緒に同行した高木は、東京帝国大学時代から旧知であり、1895年広島宇品港似島での大検疫事業で一緒だった後藤から1902年台湾総督府医学校(校長)兼任台湾総督府台北医院(院長)として招聘されます。そしてペストなど疫病撲滅・医療衛生行政・医学生育成に貢献しました。

高木友枝)

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高木はペスト撲滅のために警察本署衛生課長と防疫課長も兼任して衛生警察官による監視強化を実施しました。後藤は旧市街を撤去し新市街として再建しましたが、高木は軍隊兵站を市街地から隔離した場所に設定しました。これにより、軍人の健康管理を保ち疫病に罹るリスクを低減させました。

その結果、1901年にはペストによる死者が3,700人近く出ていますが、高木のお陰で1911年には患者と死者は共に激減し、1918年にはほぼペスト撲滅します。

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ところで、1899年設立の台湾総督府医学校ですが、此処は台湾人のために医学を志すための最初の医学校でした。台北帝国大学医学部(のちの台湾国立大学医学部)の前身となります。あの文豪であり軍医であった森鴎外の子息森於菟(おと)が戦後まで医学校医学部教授を務めています。

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医学校で台湾人医師の育成に尽力したのは勿論のことですが、台湾民主化運動を支持し、1918年世界的な民族自決運動の際には医学から公民運動に転じた学生に対しても影響を与えました。例えば、渭水もその一人です。高木は人格者で見識も高く、医師である前に一人前の人間として先ずは学ぶべき(為醫之前,必先學為人医学生に述べたそうです。台湾では『医学・衛生之父』と呼ばれました。

(台湾人の民族自決運動については別ブログで書く予定です。)

 (旧台北医学校は現在医学博物館となっています。ロビーには高木の胸像が置かれています。)

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次に台湾総督府台北医院(大日本台湾病院)は1895年設立ですが、台北以外にも台中・台南・基隆・新竹・嘉義・宜蘭・台東・澎湖・花蓮港・阿里山・高雄の12医院が総督府傘下で設立されました。但し、台北のみ台北帝国大学医学部学生のために実習教育場所として活用されるようになったため、1938年台北帝国大学医学部付設病院と改称されたのです。

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付属医院本館は1912年に完成します。藤十郎が設計した赤レンガの辰野式デザイン建築で、総統府・専売局とともに代表的建築物です。医学校も近藤設計となります。本館完成ののちに、外科病棟・婦人科病棟が増築されます。以前に眼科を訪れた事がありましたが、本館完成した当時の位置に現在も眼科が有ります。

 

 

 

 

 

(第18回)台湾の鉄道発展と鉄道ホテルの歴史について

清朝時代末期になり、欧州列強の帝国主義により台湾島において防衛上の理由と商業上の理由で、基隆から台北経由新竹まで台北巡撫劉銘伝が鉄道敷設します。その後、台湾総督府交通局鉄道部が引き継ぎ、従来路線を修復しながら高雄までの台湾縦貫鉄道路線を計画します。

民生長官後藤新平が鉄道部長を兼任しますが、この莫大な費用を台湾事業公債(1899年10年債)を募集することで乗り切ります。土地調査・官舎と庁舎新築・港湾工事も含み総公債費用3,500万円、そのうち2,880万円(8割強)が鉄道敷設費用でした。後藤はこの時の経験を生かして、のちに満州鉄道総裁にも就任します。

後藤は長谷川謹介台湾総督府鉄道部技師長として招聘して、台湾縦貫鉄道の総責任者として任命します。のちに台湾鉄道之父とも呼ばれた人物です。1908年4月基隆駅と高雄駅が縦貫線で繋がりました。同年10月には台中公園で『縦貫鉄道全通式』が挙行されたのです。

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さて、この縦貫鉄道の開通式に合わせたかのように、1908年11月『台湾鉄道旅館(Taiwan Railway Hotel)』が営業開始します。場所は台北駅前で、台北府城北門から1904年に撤去された城壁の延長線上に建てられたわけです。

(鉄道ホテルの正面玄関、道路は現在の忠孝東路。道路を挟んで手前側が台北駅。)

 

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旅館と命名されていますが、相当に豪華で最先端の西洋式高級ホテルでした。松崎萬長(まつざき つむなが)の設計によるもので、鉄道部傘下の経営でした。広さは、3069坪、3階建て、客室数30部屋でした。

客室以外には、大宴会場・大食堂・レストラン(2か所)・プール・ビリヤード・バーを備えて公共スペース全面禁煙の格式高いホテルでした。また総重量300kgまで大丈夫なエレベーター付きの最初のホテルでした。

ちなみに、大食堂では500名宴会開催できるほどで、皇族や各国大使などの宴会や式典を年間500回ほどこなしていたとのことです。毎週土曜日にはロビーでクラシック楽団による生演奏も聴けたそうです。

 

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自由民権運動で有名な板垣退助が定宿としていたのですが、台湾へ行く外国人のための鉄道ホテルの広告展示を見つけました。日本旅行(のちのJTB)ですが、外国人向け東京ステーションホテルと台湾鉄道ホテルの広告が展示されていました。

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では一体どのくらいの値段で宿泊ができたのでしょうか?

る。

1871年明治3 - 4年)に新貨条例により圓・銭・厘が新通貨として導入されました。1銭は、0.01・10に等しく、明治時代1圓=現代2万円と言う換算尺度があります。これを基準に算出すると以下の通りとなります。

①宿泊費用:1.6~3.5圓/泊(32000円~70000円/泊)

②食事費用:朝食1圓、昼食1.5圓、夕飯2圓(2万円、3万円、4万円)

③入浴料25銭(5000円)

④理髪50銭(1万円)

⑤馬車:1頭 5-8圓(10万円~16万円、半日全日の昼間夜間で相違有り)

⑥両頭馬車:お値段交渉次第

(1908年営業開始時点の再現版値段表)

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展示資料には、東京帝国ホテル・東京ステーションホテルとの宿泊費用比較もあり大変に興味深いです。ホテル案内と言う説明書も展示されていました。この書面には、ホテル位置・設備・料理・宿泊料・食事・酒場・ビリヤード・喫煙室&読書室・浴室・宴会・などの項目に説明書きが拝見できます。

例えば、料理の項目にはこのように書かれています。

『料理は永年欧米の厨房に経験を有する料理長の手に成り、飲料は内外高等の酒類数百種を備え、来客の命に應じて直ちに食卓にあがるべし。』

私が好きだったTVドラマ『天皇の料理版』というのがありましたが、まさに主人公秋山徳蔵がフランスで修業していた時期とも同じです。

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食器、フォークやナイフなど備品類は全てイギリスから調達したそうです。ある時のメニューも紹介されていました。台湾全国の食材をふんだんに使用した冷菜、前菜、スープ、メインディッシュ(2品)、果物、デザートまでのフルコースです。デザートと言えば、台湾で最初にアイスクリームを提供したのも鉄道ホテルらしいです。

また、ホテル開業後すぐに、ホテル近く(西門街)にパン屋も作ったとのことです。カナダから高級小麦を仕入れて毎日焼いて、お客様はお好みのパンを選択できるというのが自慢だったのです。

 

ところで、このホテル支配人福島篤でしたが、ホテルレストランのみならず、列車の食堂車もホテル業務管轄だったそうです。福島は食堂車の配膳係を全員男性から若い女性に変更したそうです。そして料理価格も安くしたところ大変な人気になったそうです。

現在、1919年竣工された鉄道部庁舎はリノベーションされましたが、鉄道ホテルは1945年5月台北大空襲』で米軍空爆により被弾延焼しました。残念なことですが、その後鉄道ホテルが再建されることはありませんでした。

(2020年7月鉄道博物館としてオープンした旧鉄道部庁舎)

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 (鉄道部庁舎隣にある幹部用日本家屋跡?、残念ながら未整備)

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(第16回)台北市内の上下水道(自来水)の歴史について

今回は台北市内の上下水道(自来水)に関する歴史について書きたいと思います。我々が普段何気なく使用している水道ですが、清潔な飲み水が出ることを当たり前のことの様に生活しています。

 

世界的にみると、1856年イギリス ロンドンに世界最初の下水道が完成しました。世界の大都市ではこれに倣いましたが、日本統治以前、つまり清朝統治時代に台北府城内には上下水道はありませんでした。台北巡撫劉銘伝は城内の公共飲料水確保のために北門街(現衡陽路)、石坊街(現博愛路)、西門街に井戸を掘削、濾過消毒して飲料水として市民に提供していました。

 

日本統治時代になってからは、日清戦争後に伝染病や風土病対応策として帰還兵士に対する大検疫事業に関わった民生長官後藤新平は、その経験から台湾島内の疫病対策として衛生環境改善のために上下水道完備を都市開発重点項目の一つとします。

そして、1896年後藤はこの重点項目遂行するために二人の技師を日本から招聘します。一人は、外国人お雇い技師イリアム・バルトン、もう一人は浜野弥四郎です。

 

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 バルトンは、1887年明治政府内務省衛生局に顧問技師として雇われた1856年生まれスコットランドエジンバラ出身の技師です。コレラ対策のため衛生局顧問技師として東京市上下水道取調主任に着任しました。帝国大学工科(のちの東京大学工学部)でも衛生工学講座を担当していました。のちに『水道之父』と呼ばれる浜野はバルトンの帝国大学での優秀な教え子でした。

 

 バルトンは、日本でのお雇い期間の9年間(元々7年間だった)が満了して、イギリスへ日本人妻と一緒に帰国するはずでした。後藤からの強い要請と日本びいきなために雇用期間を更に再延長しての台湾赴任でした。そして総督府民生部土木局に着任します。

先ずは、台湾各地の公衆衛生調査から始めましたが、風土病から守り公衆衛生向上のためにはやはり上下水道完備だとの再認識に至りました。そして次に上下水道を完備するための十分な水量のある良い水源地調査に着手します。この水源地調査には苦労したそうです。

そんな最中、バルトン自らが風土病(マラリア)に罹ります。治療のため1899年日本へ戻って療養しましたが志半ばで亡くなります(享年43歳)。東京青山霊園に墓地があるそうです。

浜野は恩師であり仕事の上司でもあった死には相当なショックであったはずですが、不屈の精神でバルトンの遺志を引き継ぎます。1903年以下の通りの計画をして、設備設計に取り掛かります。

①水源地を新店水系と定める。

②取水口を設ける。

③沈殿池と濾過池を設計、建築する。ここで洗浄濾過処理をする。

④小観音山山頂に浄水池と貯水池を造り、加圧ポンプで浄水池に揚水する。

⑤浄水池経由貯水池から自然落下方式で台北市内に給水する。

 

 現在ではその上下水道設備の痕跡が台北自来水博物館』で見学できます。自来水とは水道源水抽水浄水ポンプ室のことです。実際にポンプ室・浄水池・貯水池跡を見学してきました。日本統治時代には、この住所は水道町(現水源里)と呼ばれていました。

 

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(1919年浜野の発起でバルトンの胸像が博物館前の芝生に置かれた、現在は残念ながら撤去された。)

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ポンプ室の建屋は半円形上に設計されていました。まるでどこかの美術館と思えるような重厚な造りです。ポンプ室には、源水地からの抽水用ポンプが4機、浄水池への揚水用ポンプが5機設置されていました。米国製ポンプに混じり、日立製作所製と荏原製作所製も確認できましたがこれも凄いことです。

(手前が取水用ポンプ、奥が揚水用ポンプ)

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次に浄水池と貯水池跡へ行ってみましたが、ポンプ室から歩く事10分ぐらいの50mほどの小高い丘(小観音山)の上にありました。洗浄濾過した水を浄水池まで引き上げて貯水後、小高い丘から一気に配水ポンプで台北市内に配給するようです。残念でしたが、浄水場と貯水池の設備は見学できませんでした。

 (浄水池の入り口)

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(この芝生の下が貯水池)

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 (小観音山からの下水道設置風景)

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台北初の上下水道設備は1909年完成して、『台北水源地緩速濾過場』命名されました。日本本土では同年に東京市下水道計画が立案されたので、当時の東京よりも先んじて下水道設備が完成したことになります。

台北市内の下水道設置風景)

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当初は台北府城内・大稻埕・艋舺が対象地区でしたが徐々にその上下水道地区も拡充されて、1920年代には台北市内をほぼ網羅して15万人の飲み水が確保されたとのことです。そして、陽明山系・竹子湖系・沙帽山系水源地から取水拡張により17万人の飲料水を確保しました。併せて32万人分の飲料水を賄うことができたそうです。1977年まで現役で稼働していました。

 

その後、浜野は1919年台湾総督府を去るまで16都市の上下水道計画に携わりました。特に1912年からの台南水道事業計画時には、烏頭山水庫(ダム)を設計した八田與市の上司でもありました。バルトンと水源地調査した結果を基に、曽文渓水源からの台南水道事業は途中第一次世界大戦を挟み、1922年完成、当時8万人の人口に対して10万人分の給水を可能でした。1988年まで台南住民に飲料水を供給してました。

台湾ではその業績を称えて『上下水道之父』とも風土病の撲滅に尽力したので『都市之医師』とも言われています。最初にも言いましたが、普段何気なく使用している水道ですが、先人たちの知恵と努力に感謝しないといけないと思います。

 

(第15回)台湾の米作(蓬莱米)の歴史について

私は台湾料理の中でも『鲁肉飯』は大好きな一品です。普段台湾で食事をしていてお米の味に違和感を覚えたことはあまりありません。今回はそのお米に関する台湾の歴史を書きたいと思います。前回(第14回)のサトウキビ(甘蔗)とも多少関連します。

 

日清・日露戦争以降、日本国内では急激な都市部での人口増加と重軽工業化が進みます。工場勤めが増える一方で、農家では農業従事者離れと成人男子の徴兵制度による農民不足となります。また、1914年に始まった第一次世界大戦では、参戦国でありながらも日本商品の輸出が好調なために一種のバブル景気になったことにより、物価上昇を招きました。

 

その結果、1918年米価高騰が原因で米騒動が全国に広がります。台湾総督府から日本本土へ台湾人が主食としていた台湾米を緊急輸出したものの、細長いインディカ米系であったために、ぱさぱさとした食感と独特の匂いが日本人の味覚に合いませんでした。

 

 また世界大戦の影響もあり米輸入もままならず、西洋化したとは言えまだまだ主食を米に頼っていた日本人にとっては、米の供給量が需要量に追いつかない状況となります。

 

(1914年第一次世界大戦開始時には米価は底値でしたが、大戦中の物価上昇と共に1918年から1919年にかけて米価はピークとなります。)

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 台湾総督府では既に国策としての糖業が軌道に乗っていた時期で、台湾総督府の財政を支える経済産業品となっていました。しかし、日本本土での状況もあり、日本では台湾を米の供給基地として、台湾総督府は日本米に近い味覚の米作をもう一つの経済支柱として計画します。

 

そして、この期待に応えるべく一生を米作に捧げた日本人がいます。1886年広島県出身磯栄吉です。1912年台湾総督府農事(農業)試験場種芸部技手として台北へ来ていました。磯は台中農事試験場、欧米留学、中央研究所を経て台北帝国大学農学部教授となります。そして日本から持ち込んだジャポニカうるち米と台湾在来種のインディカ系うるち米稲とを100余種類の交配で台湾の亜熱帯気候に適合させる品種改良と栽培方法の開発します。

 

しかし、在来種のインディカ系うるち米は、非常に多品種でこの中から適合種を選び、その他を淘汰する作業は困難も極めました。磯はこの研究を同僚である末永仁と共に台北帝国大学農学部(現台湾国立大学農学部)の研究室(通称:磯小屋)で行います。末永は在来種のみでの品質改良は無理だと考えていました。そのために、ジャポニカ米稲との混合を早い段階から考えていました。これが功を奏したのです。

 

(磯小屋にある二人の胸像、蓬莱米の父と母)

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なお、この研究室は1925年創設で当初は台北高等農林学校の校舎の一部でしたが、台北帝国大学(台湾国立大学)が創設後にその管轄に編入されたそうです。現在でもこの研究室跡の周りには農学部農業試験場がありました。

 

(磯小屋は平屋造りですが、台湾大学の中で最も古い建屋だそうです。)

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(研究室には当時のままの標本米や様々な測定機器が置かれています。)

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さて改良米の研究に取り組むこと10年、台湾総督府の米作作付け量統計資料に1922年に初めて改良米種が登場します。1926年台北鉄道ホテル(第18回ご参考)で大日本米穀大会が開催されましたが、そのおりに、第10代台湾総督伊澤多喜男により、改良米は内地向けで『蓬莱米』命名されたのです。

 

(蓬莱米の更なる改良版台中65號、現在の台湾米のほとんどが台中65號が基礎になっています。)

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蓬莱米の流通は日本市場で果たした米不足解消の役割が大きかっただけではなく、台湾で二期作が可能となり米作農家の生産量と収益とも格段とアップに繋がりました。蓬莱米の米作上での肥料・土地改良・用水路・灌漑・害虫駆除などの技術向上も生産量アップの起因でした。更に台湾総督府の外貨獲得には糖業と共に大いに寄与したわけです。

 

ところが、1930年代になると前回(第14回)のサトウキビの回のブログでも書きましたが、経済作物であった甘蔗と水田稲作とで作付けの土地争い(米糖相克)の問題が顕著になります。つまり、米価買取価格が上昇するとサトウキビ農家は稲作農家に転換する農家が出てサトウキビ栽培面積が縮小すると言う精糖業と米作との相反する構造的問題でした。

 

サトウキビの栽培を止めて米穀栽培へ移る農民が増加すると製糖会社としては原材料の確保が困難になるので、確保するためにはサトウキビの買収価格を上げざるを得ない状況になります。これは製糖会社の収益に悪影響を与える結果になりました。

 

しかし、この問題も1930年代後半から日本では逆に米余りが顕著になり、米糖相克問題も自然解消することとなったのです。米作のだぶつきを緩和する代替案として、新たにバナナやパイナップルなどの果物を有望輸出品として計画します。

 

 さて、1945年敗戦と終戦を迎えて、本来であれば磯は日本へ引き揚げとなる身でしたが、台北帝国大学農学部教授の地位と蓬莱米発明により、台湾農林省技術顧問としてそのまま台湾に留まります。当時、日本が統治時代に築いたインフラなど全て中華民国に接収されました。それに伴い、それらに必要な人材はそのまま台湾に残る場合があったのです。

⇒第30回をご参考ください。(引き揚げ帰還事業)

 

その後、磯は1957年71歳で台湾大学を定年退職となり45年間の台湾での研究生活を終えて無事に日本へ帰国します。『台湾蓬莱米之父』と呼ばれた本人は享年86歳でしたが、蓬莱米は2014年めでたくも誕生から88歳(米寿)を迎えたとのことです。凄い事です。

 

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(第14回)台湾の糖業について

嘗て李登輝総統は「台湾は糖業と米作で稼いだ外貨で工業化させて貰った。」と述べたそうです。少々大袈裟かもしれませんが、それほど糖業は一大産業であったことに間違いはありません。今回は台湾の糖業について書きたいと思います。

 

民生局長官後藤新平は、農業専門家として同郷岩手県盛岡出身の新渡戸稲造を1901年台湾総督府民生局殖産課に2年掛りで招聘します。招聘するのにこれほど時間を要したのは新渡戸の身体があまり丈夫ではなかったので、新渡戸自身が固辞していたためです。

 

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新渡戸は『Boys Be Ambitious』で有名なクラーク博士が教鞭を取った札幌農学校(現北海道大学農学部)第二期生です。烏頭山水庫(ダム)建設した八田與一の恩師広井勇(港湾工学の父)は新渡戸と同期となります。クラーク博士は、この時期既に帰国していますので、直接薫陶を受けたわけではありませんが、キリスト教に対して強い影響を受け洗礼も受けます。のちにこの関係でアメリカ人女性と結婚します。

 

台湾総督府殖産課の仕事は、農業全般に関わります。当時は農民・農地・農産物の発展により国家の財政を健全化することを農政学(現在、農業経済学)と言いました。つまり、商工業の発展のみならず、農業の発展が無くしては国家の健全な財政的発展は成り立たないと言う学問ですが、新渡戸はこのような信念の持主でした。

 

新渡戸の最大の貢献は、殖産局長時代(1901年~1903年)茎の細い在来種(野生種)のサトウキビ(甘蔗)研究を基に、台湾の風土に即した品種改良・栽培方法・市場開拓の3方面に亘る『糖業改良意見書』を纏めて、児玉総督と後藤民生局長に提案した事です。

(甘蔗は意外に背丈が高いのでびっくり、台北製糖工場跡地にて)

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この意見書が台湾における糖業の行く末を決定し発展の礎になりました。糖業は樟脳・塩・煙草・酒の様に国家管轄の専売品とせず、民間企業の活力により産業としたのです。そして、その貢献により『砂糖之父』とまで称されるようになったのです。

⇒専売に関しては、第24回をご参考ください。

 

台湾総督府も糖業に力を入れて、1902年『台湾糖業奨励規則』を公布しました。これによると、サトウキビ(甘蔗)の耕作、或いは、砂糖の製造に従事する者には、甘蔗苗費用・肥料・開墾費用・灌漑費用・排水費用・政党機械器具費用を奨励金(補助金)を交付し、無償で貸し付けると言う規則でした。そのために、以下の多くの民間企業や財閥が糖業に参入したのです。

台南県橋仔頭に最初の新式機械製糖工場を建設し、1902年1月操業開始した台湾製糖(株)橋仔頭廠(工場)を始めとして、鹽水港精糖(株)1903年設立)・明治製糖(株)1906年設立)・大日本精糖(株)1906年台湾進出)4大製糖会社が民間企業として次々と設立されました。なお、戦後、これら4社は台湾糖業股份有限公司(通称台糖)に接収統合されます。

台湾製糖橋仔頭工場、煙突の煙が戦時中に標的となったらしい)

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従来サトウキビ(甘蔗)の収穫までは台湾、そして日本の内地工場へ送り精糖していました。ところが、台湾総督府の糖業推進と4社工場設立により日本内地工場と台湾内工場の双方で精糖・販売まで出来る様になりました。

また収穫時期の異なる品種を順繰りに栽培することで1年間絶え間なく収穫ができるようになりました。その結果、最盛期には4社で年間160万トンのサトウキビ処理して外貨獲得の8割にも達したのです。

 

一方で産業振興の柱として糖業と米作を奨励したことにより、米作と蔗作との兼ね合いで、水田稲作農家と蔗作農家とが農地取り合い問題(米糖相克)が発生します。

⇒稲作(蓬莱米)に関するブログは、第15回をご参考ください。

 

さて収穫したサトウキビ(甘蔗)の工場への搬入は、1907年まで何と水牛で運んでいました。サトウキビ収穫量も爆発的に増大したのと、効率を上げるためにサトウキビ専用の鉄道路線台湾糖業鉄道が敷設されます。

 

阿里山森林鉄道の様に蒸気機関車は使用しませんが、線路幅が762mmと狭い軽便鉄道ディーゼル機関車です。各製糖会社が独自に路線を敷設していました。台湾製糖橋仔頭廠(工場)で使用されていたサトウキビ列車は、橋仔頭駅から高雄港、或いは台南港へ繋がっており輸出に便利でした。

(糖業専用とは言え、工場従業員や付近住人も乗車させていました。)

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サトウキビ工場や糖業鉄道は、1999年まで稼働していた台糖橋頭廠跡地にできた台湾糖業博物館高雄市橋頭)で見学することが可能です。

(博物館というよりも、製鉄工場跡のような印象を受けます。)

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サトウキビ収穫以降、切断⇒圧搾(5回)⇒加熱⇒濾過⇒洗浄⇒蒸気⇒結晶⇒精製⇒乾燥までの全工程機械化された工場が2棟ありました。各工程の装置が昔のままに設置されています。当時は最先端工場で毎日200トンものサトウキビを処理できる容量だったそうです。

(写真は加熱工程の装置、その後、濾過工程へ)

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内地や台北総督府からも幹部が見学に来ていたようです。工場来社履歴を見ると後藤新平の名前があり、工場設立時期には何回も訪れていることが分かります。それだけ総督府として重要視していたのも分ります。

工場跡地を見学したこの日は暑い日でしたので、工場内を回るだけでも大変でした。それでも、往時の雰囲気に触れることができ時間が停止している感じでした。製糖工場以外にも、コロニアル風の事務所棟・日本家屋の工場長と副工場長宿舎、そして、日本人技術者と従業員の日々安寧を祈るための観音様などがありました。

 (ベトナムで見るような事務所棟)

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(工場長社宅、副工場長社宅を拝見できます。どちらも典型的な日本家屋。)

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観音様は初代社長鈴木藤三郎が建立したものです。奈良の薬師如来菩薩観音を真似て作らせたそうです。工場での安全を願い災いが起きない様に祈願したのでしょうか。

(何故か真っ黒な観音様)

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さて最後に余談ですが、新渡戸は身体が弱かったのが招聘に時間が掛かった理由と書きましたが、台湾総督府雇用条件のひとつとして『毎日昼寝一時間』が赴任条件だったらしいです。

台湾から帰国後は、1918年東京女子大学初代学長など女子教育にも尽力、これにより日本銀行券5000円紙幣の肖像にもなりました。1920年得意の英語を生かして国際連盟事務次官も勤めました。江戸―明治―大正―昭和(1933年)と生き抜いた人物でした(享年72歳)。