(第27回)台湾ビーフン(米粉)の思い出について

第26回で台湾における初等・中等教育について調べていたら、台湾名物料理のビーフン(米粉)の思い出について書きたくなりました。いつもの台湾歴史の内容から少々ずれますが、ご勘弁頂きたく存じます。

(寧夏夜市にて)

 

f:id:tsuyopytw:20200821234419j:image

 

何故、教育とビーフンが結びつくのかをお話します。ワタシの母親(故人)は中学まで長野県諏訪市で育ちました。旧制諏訪高等女学校(現諏訪双葉高等学校)に在籍していたと聞いたことがあります。

戦争末期に台湾台北から一人の女子生徒が諏訪高女に転向してきたそうです。ご両親は静岡県で病院を経営する裕福な家庭でした。何かの理由で台北帝国大学医学部付属病院(内科)に父君が勤務していて家族同伴で台北へ赴任していたらしいのです。

台北帝国大学医学部付属病院については第17回をご参照ください。

しかし、日本の戦況が怪しくなり始めたため、父親を残して台北から日本へ帰国しました。静岡には住友金属プロペラ工場と三菱重工業静岡発電機工場の二つの官設民営軍用機関連工場があり空襲の恐れがあるので、諏訪に疎開したそうですなのです。事実、1944年から終戦にかけて静岡空襲が計26回有りました。私の母親とその女子生徒は諏訪高女のクラスメートとして直ぐに親友になったそうです。

ちなみに女子生徒は、名門旧制台北州台北第一高等女学校(現台北市第一女子高級中学)に通学していたとのことです。日本統治時代の女子高等教育の拠点として1904年設立されました。旧台北州台北第一中学校と同様に、女子生徒の大半は日本国籍者でした。

⇒第26回をご参照ください。

(現在の名門台北市第一女子高級中学、通商”北一女”と呼ばれている。1923年関東大震災の教訓から耐震型校舎を建築。女子高ながらがっちりした外観構造の印象。)

f:id:tsuyopytw:20200818170305j:plain

 

此処はかつて清朝統治時代に、学問堂である文廟(孔子廟)が有りました。道路を挟んで台北司法大廈(旧高等法院)の場所には武廟(関帝廟)が有りました。

文廟(孔子廟)と武廟(関帝廟については第8回をご参照ください。

 (台湾総統府土木局修繕課 井出薫の設計、1934年旧台北高等法院完成。第1回の中山堂も井出の設計。)

f:id:tsuyopytw:20200818172328j:plain

 

戦後数年経って私の母親家族は東京へ出て、親友家族は静岡に帰郷しました。

私が小学校低学年のころですから、今から50年以上も前でしょうか、母親の親友の静岡の家に母親と夏休みで遊びに行った時の夕飯にとある一品が出ました。

 ソーメンでもうどんでも蕎麦でもなく炒めてある麺、でも焼きそばとも違うと子供ながらに思いました。それが焼きビーフン(炒米粉でした。何だか妙に印象に残りました。

(汁ビーフンもありますが、焼きビーフンの方が断然好きです。つみれ汁との相性は抜群。)

f:id:tsuyopytw:20200818002259j:plain

 母親の親友は台北で暮らすうちに焼きビーフンの料理を覚えて日本でも家庭料理として作っていたわけです。この料理が私の中で台湾と結びつくのは相当に後になって、台湾ビジネスを始めた頃からのことで合点が行きました。

 『ビーフン(米粉)』は米作地帯である新竹市の名産です。インディカ種うるち米を精米して水に浸透させながら挽いてペースト状にします。それを濾過してでんぷん質を加熱しながら練った生地をところてんの様に小さい穴の開いた筒状の金型から押し出して紐状に形成します。

そのまま切断して棒にかけて乾燥させますが、新竹は台湾海峡からの強い風が吹き乾燥させるにのはもって来いらしいのです。元々は福建省辺りから伝わった料理で、水でもどしてから、具材と混ぜて炒めるのは実は少々面倒な料理だそうです。

 母親も数年前に亡くなり、親友であった女性もお元気で生きていれば88歳(米寿)になっているはずです。ご家族はいまでも焼きビーフン(炒米粉)料理を家庭の味として引き継いでいるでしょうねえ。