(第26回)台湾の日本統治時代における初等教育(公学校)について

MRT淡水信義線芝山駅から徒歩で20分ほど歩くと、夜市で有名な士林区芝山公園が有ります。2千万年前の大昔には海底でしたが、火山噴火により小高い丘になった場所です。アンモナイトも発見される場所です。

公園内に清朝康熙帝時代に福建省漳州府からの移民が建立した恵済宮という道教の廟があります。此処に日本統治開始が始まって間もない頃、廟を間借りして芝山巌学堂を開校しました。台湾総督府は先住民の日本語教育を重視したため、日本語を教えるための場所でした。

(恵濟宮の入り口、ここから急な百段以上の階段を上った場所に芝山厳学堂がありました。)

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日本から若い日本人教師7名が立派な教育精神を抱いて台北へやってきました。ところが、1896年に抗日匪賊により教師6名が殺害されてしまいます。『芝山巌学堂事件』と言います。

(殺害された六名の教師のお名前の墓碑がありました。)

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犠牲者の一人、楫取道明(幼名:久米次郎)は吉田松陰妹文(父親:楫取素彦)に育てられた教師でした。日本統治に変わった直後の時期であり、教育の趣旨も残念ながら理解されなかったのです。

殉職した日本人教師6名が眠るお墓が恵濟宮に有ります。恵濟宮から少し離れた場所にひっそりとあり御宮の方に案内して頂かないと判らない場所でした。のちに現存していませんが芝山巌神社が建立されて教育殉職者を祀ることになり、台湾の教育に携わる者の聖地となりました。今でも学校関係者や教師を目指す若者が参拝する場所と地元の方に教えて頂きました。

 

お墓の少し先に六氏先生石碑『学務官僚遭難之碑』が建立されています。この石碑は1896年伊藤博文が台湾訪問時に揮毫したものです。このような事件が発生したものの、日本語普及を目的に台湾全土14か所に国語伝習所を作ります。

(受難とする予定が、伊藤の判断で世情を考慮して遭難の文字に変更となったそうです。)

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そしてこの事件から3年経過して、台湾総督府は、『台湾公立公学校規則』『台湾公立公学校官制』『公学校法』を制定します。公学校とは台湾人子弟への初等教育を目指したもので、8歳から14歳未満までの台湾籍児童に対する6年間の義務教育実施に関する法令です。

科目は、修身・作文・読書・習字・算術・唱歌・体操でした。日本語に精通させるのが主目的でしたので、日本人子弟が通う尋常小学校の教科書とは違いが有ったようです。なお、原住民族に対する蕃人学校も公学校とは別に制定させました。ちなみに、この蕃人学校の教育にあたっていたのが駐在所の警察官だったそうです。

⇒第22回ご参照ください(当時の教科書掲載)

途中日本内地での教育課程と同様内容に修正されましたが、1941年全国公学校と蕃人学校と尋常小学校とが国民学校に統一されるまでこの状態が続きました。

公立学校であり、言わば義務教育でもあったので、台湾各地方政府が教育費用を負担しました。また、徐々に日常生活において日本語の重要性が理解されたので、日本統治終了時には、全国約8割に近い学童が就学していました。これは当時の先進諸国の中でも高い数字だそうです。

(自宅近所の旧日新公学校(現日新国民小学)、1915年開校当時は大稻埕第二公学校と呼ばれ、1922年から日新公学校となった。女子は日新公学校のそばの蓬莱公学校へ通った。1933年より共学、男女クラスは別々だった。何故か入り口に狛犬がいるが、設計者は不明。)

 

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初等義務教育が終了して、ここからは旧制中学(中等教育)や旧制高校(高等教育)を経てから台北帝国大学台北師範大学などへ進路となります。成績優秀が条件であるのは勿論のこと、台湾籍の子供は日本籍の子供と男女格差が付けられ、更に狭き門になります。

例えば、台北第一中学校(現台北市建国高級中学)では、終戦直前では在籍生徒はほぼ日本籍男子学生、台湾籍男子学生は僅かに3%しかいませんでした。

(台湾屈指のエリート名門高校、台北市建国高級中学。1908年台湾総督府修繕課 近藤十郎設計。代表作に台北帝国大学付属医院。⇒第17回参照、蒋介石像は戦後のもの。)

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⇒第19回ご参照ください(この格差はやがて台湾での民主化運動とも繋がります。一方で皇民化運動にも影響してきます。)

経済的に余裕があり成績優秀である台湾籍の学生は、台湾内の大学には進路せずに日本本土内の大学へ留学する道を選択するようになります。先日亡くなりました李登輝氏も同様に京都大学農学部へ進路します。

 

 

 

 

 

 

(第25回)台湾総督府と総督明石元二郎 ~李登輝元総統を偲んで~

2020年7月30日、李登輝元総裁が惜しまれながらも亡くなりました(享年97歳)。日本の台湾統治時代、新渡戸稲造に憧れて京都帝国大学農学部卒業、自らを親日派と言って憚らない政治家にして農政学者でもありました。ちなみに、新渡戸同様に李登輝氏もクリスチャンです。

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李登輝氏の一般弔問が台北賓館で行われました。私も日本の恩人である故人を偲び弔問して参りました。ご本人がお好きだった『千の風になって』が壮麗な台北賓館の中に静かに流れていました。

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この台北賓館は通常では参観できない施設ですが、日本統治時代の台湾総督官邸でした。国内外からの要人が台湾を訪れた際の迎賓館としても使われていました。1901年初代官邸が完成したものの、白蟻の犠牲になり、1913年増改築したものが現在の台北賓館です。日本家屋も有りますが、残念ながら参観できませんでした。ちなみに、第2回で取り上げた1952年日華平和条約調印式はこの台北賓館で行われました。

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台北賓館は、台湾総督府土木部営繕課の森山松之助の設計によるものです。フランスバロック様式の二階建てです。第16回台北下水道ポンプ室(自来水)と第24回専売局庁舎も森山の設計です。

ところで、台湾における日本統治時代(1895年~1945年)、台湾総督府では歴代武官(10名)・文官(9名)の合計19名が総督に就任しています。武官の内訳は、陸軍出身者7名、海軍出身者3名です。中には首相になった桂太郎日露戦争で活躍した乃木希典児玉源太郎もいます。

 そして、第7代総督は陸軍大将明石元二郎です。乃木と児玉と共に日露戦争で名を馳せたのはバルチック艦隊を撃滅した東郷平八郎元帥かと思います。しかし、明石がいなければ日露戦争の状況も変わったかもしれないと言われたほどの重要人物です。

 

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 明石は陸軍幼年学校~陸軍士官学校~陸軍大学と陸軍の中枢を歩み、語学と数学の英才でした。英語は勿論の事、ドイツ語・フランス語・ロシア語に堪能でした。将来は首相の器とも言われていました。

 日露戦争開戦と同時に駐ロシア公使館は中立国であるスウェーデンストックホルム)に移されて駐留武官として勤務しました。児玉からの指示でレーニンロシア革命を扇動してロシア帝国に揺さぶりを掛けよが後方支援としての明石へのミッションで見事に遂行しました。ジュネーブに有ったレーニン自宅にて会談もしています。

機密費用として200万圓(約4億円相当)を受領してロシア革命のために拠出しましたが、最後に残った27万圓まできちっと使用明細を付けて報告しているそうです。1圓たりとも個人の懐にいれない清廉潔白な人物だったのです。(1ルーブルは無くしたそうですが)

 台湾総督在任期間(1918年6月~1919年10月)としては僅か1年4か月間と言う歴代の中で決して長期間とは言えない人事でした。就任した1918年6月日本は、米価価格の暴騰により米騒動シベリア出兵の時期と重なります。世界的に見れば、第一次世界大戦終結に向かい始めた時期でもあります。

在任期間、日月潭での水力発電事業及び台湾電力会社を興しました。台南烏山頭水庫(ダム)建設(第23回記載)の英断を下し大きな仕事をしました。また新しく創設された台湾軍の初代司令官も兼任していました。更に本土と台湾との同化推進と教育格差の是正(台湾学制の統一)にも努めました。映画で有名になった嘉義農林学校もこの時代に創立されました。

不幸にも、総督在任中にインフルエンザ(スペイン風邪)に罹り亡くなります(享年56歳)。19名の総督中で在職中に亡くなったのは明石のみです。1918年~1920まで続いた世界的にパンデミック化したスペイン風邪は、死亡者数5千万人とも言われています。

 「余の死体はこのまま台湾に埋葬せよ。いまだ実行の方針を確立せずして、中途に斃れるは千載の恨事なり。余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」

 

故人の遺志により、故郷福岡ではなく台北市内の森林公園(当時、三板橋日本人共同墓地)に埋葬されました。福岡の墓地には遺髪のみと言われています。

後に日本人共同墓地は、1949年中華民国国民党軍が中国大陸から来て、バラックを建てたそうです。墓地はスラム化したとの当時の様子を知る方から聞きました。そのため明石の墓地も一時は不明になりました。その後1996年台北市の方針でスラム化した不法住宅は撤去されました。

現在では緑地公園(森林公園)に整備されて鳥居と南洋樹がその名残です。墓石は別の場所(新北市三芝区)に移されました。日本統治時代、約50年間の中で、その亡骸を台湾の土に還したのは明石のみです。それだけこの台湾経営と台湾住民への強い思いが有ったのでしょう。

 (鳥居と南洋樹木の間に墓石があったらしい。)

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(第24回)台湾における日本統治時代の専売制について

今回は台湾における日本統治時代の専売制に関連することを書きたいと思います。先ずは、専売制の定義「国家が財政収入を増加させるために、特定物資の生産・流通・販売を国家管轄化に置くこと。発生する利益は、国家独占となる。」

台湾総督府の財政について、特別会計制度をしいており日本政府から補助金を毎年収入として得ていましたが、1906年にはその補助金無しに財政独立を果たしました。その際には専売収入が約5割以上にも達していました。

結果的に日本の統治期間中(1895年~1945年)においても、台湾総督府の財政収入のおよそ2割超を専売品が占めて、主たる財源となりました。その専売品目は、樟脳(樟脳油を含む)と食塩、それと阿片でした。ちなみに、非専売品の主たる財政収入源としては、糖業による砂糖(砂糖税)と米穀物(蓬莱米)によるものです。

初代専売局長は民生局長後藤新平が兼任します。当初の専売品に阿片が含まれていた理由は、後藤の統治手法によるものです。清朝時代から根付いた吸引風習を全面的に禁止するのではなく、阿片吸引常習者を登録制にしたのです。新規吸引の許可はしていません。そうすることで徐々に常習者を減らしました。阿片は撲滅対象専売品でした。

1901年台湾総督府傘下に専売局を設置しました。煙草(1905年)、酒類(1922年)、マッチ(1942年)、石油(1943年)はのちに専売品として追加されます。

(森山松之助設計、辰野式の専売局庁舎。タワー、レンガ造りと白色のコントラストが象徴的。)

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 ところで、樟脳は清朝時代からの重要な物資でした。イギリス人やドイツ人の外国商人には特に人気商品でした。しかし、清朝時代は樟脳製造と販売権を外国商人が一手に握っていました。そのために樟脳原木の販売元と外国商人とは不公平な取引でした。

 樟脳の効用は、一般的に衣服の防虫剤として知られています。これ以外には、血行促進作用・鎮痛作用・消炎作用・痒止め作用・清涼感作用があるので、非常に重宝がられたわけです。

さてこの樟脳は、楠木(くすのき)の葉や枝が原料となります。簡単に言えば楠木を切削粉砕して高温で蒸して成分を抽出します。それを冷却機で結晶化させます。乾燥後に精製して取り出される白い結晶が樟脳となるわけです。

楠木の良木は、阿里山山脈(大塔山2663m)の様な高山でしか入手できません。そのため、第5代台湾総督陸軍大将佐久間左馬太は、山族先住民を軍事制圧しながら楠木の伐採を進めます。無抵抗な山族は平地に降ろされ、抵抗する山族は天候状態が更に厳しい高地に追いやられることになりました。

阿里山では楠木のみならず杉木や檜木の伐採もされていました。そのため森林資源輸送手段のため、阿里山森林鉄路(シェイ型蒸気機関車)が敷設されます。標高543m地点に、樟脳寮駅と言う駅名がありますが、樟脳会社の社員寮が多数有ったことに由来するそうです。

嘉義車庫園区にて。1914年米国LIMA社製造と銘板には記載されていました。)

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 (阿里山森林鉄道路線図、赤丸が樟脳寮駅。現在残念ながら蒸気機関車は運行停止中ですが、阿里山ー沼平、阿里山ー祝山、阿里山ー神木区間ディーゼル車両が運行中。)

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一方で伐採された楠木は阿里山から嘉義経由台北へ運ばれます。森山松之助が設計した辰野式の専売局庁舎(1913年着工、1922年完成)の道路を挟んだ向かい側が、専売局南門樟脳工場(1899年創設)です。此処は、台湾で樟脳を粗精製する唯一の工場でした。

(阿片精製もこの工場の中で行われていたとのこと。)

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最盛期には世界の樟脳需要の八割が台湾産で賄われていたこともあり、数千人の従業員が此処で働いていたそうです。現在でも南門パークとして跡地の一部が見学できますが、当時の工場の敷地面積は、この南門パークの八倍の広さだったそうです。

(手前のレンガ造り:樟脳倉庫、奥手の石造り:物品倉庫)

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レンガ造りの樟脳倉庫と荷造り場はお洒落なレストランとなりました。樹齢90年近い立派な楠木も現存しています。清朝時代の台北府城の城壁残骸で造られた物品倉庫は小白宮と呼ばれていました。

(小白宮、正に樟脳は白い結晶で高額財政収入を産む宝の山でした。)

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防火用貯水槽は、工場が火災に遭遇した経験により造られたもので、工場から排出された冷却水を貯蔵して灌漑用水にも使用されていました。搬入出する際のトロッコレール跡も確認できました。

(樹齢90年の楠木と四百石貯水槽、楠木の向こう側は小白宮の裏。)

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ところで粗精製以降の高純度精製は、従来イギリスなど海外樟脳メーカー自身で行っていました。専売局は品質安定化のため、そして売上増額のためにこの作業を民間企業へ業務委託することに決めます。1918年日本の樟脳会社(6社)と三井物産が合併して日本樟脳株式会社台北工場(現日本精化(株))が設立されることになります。

樺山貨物駅(現華山公園)の後方、酒造工場と同じ敷地内にその樟脳工場跡を見ることができる。)

 

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追記(ご参考)

 1937年に建てられた松山煙草工場跡です。本館と五つの倉庫の建屋、及び搬入搬出用の運搬レール跡が見られます。この工場後方は鉄道部台北鉄道工場跡があります。高砂麦酒株式会社(現台湾啤酒)工場とも運搬レールで繋がっていたようです。此処は戦後「台湾省専売局松山菸草工廠」に接収されます。その後1998年煙草の需要低迷により操業停止します。

(松山煙草工場。昭和12年創建、広い中庭を取り囲み近代的で簡素化された重厚なコンクリート二階建て造り。)

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(本館工場横にある原料倉庫跡。倉庫から直ぐに列車搬送できるよう駅のプラットフォームの様な構造になっている。手前にはレール跡。)

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(第23回)烏山頭水庫(ダム)を造り、嘉南平野を実り多い土地にした八田與一ついて

第14回で紹介した新渡戸稲造の研究で糖業が台湾一大産業になったのも、第15回で紹介した磯栄吉が作った日本米と台湾米の混合品種の蓬莱米もある意味で、このインフラが整備されたからこそ台湾総督府の財政と日本内地に多大な影響を与えたと言っても過言ではないかもしれません。今回は、 烏山頭水庫(ダム)建設により、広大な嘉南平野を実り多い土地にした八田與一について書きたいと思います。

八田與一1886年石川県金沢出身です。1910年台湾総督府土木部土木課勤務となります。上司は第16回で紹介した台北市初の下水道設備(自来水)を造り上げた浜野弥四郎でした。

1914年から始まった第一次世界大戦による米価高騰、1918年からのシベリア出兵による米の買い占めなどの影響もあり、日本内地では慢性的な米不足となります。そのような状況下で台湾の糖業と米作作付け向上に期待が掛けられた時代です。

八田は土木部に着任以降、既に桃園平野の灌漑(桃園大圳)と水利に功績を上げていました。台湾総督府土木部は、八田にこの難問を解決する役割を与えました。八田は台南にある15万ヘクタールの広大な嘉南平野(官田・六甲・大内・東山地区に跨る)に着目して調査しました。

此処は、広大ですが灌漑施設が無いために旱魃(かんばつ)により肥沃な土地ではありませんでした。そこで、官田渓水系を堰き止めて『官田渓貯水池』として曽文渓水系から水を引き込み、水庫(ダム)を造り水路(幅4.5m、水深2.0m)を嘉南平野中に張り巡らせるという途轍もなく壮大な東洋一規模の灌漑計画を立てます。

(1918年から1930年まで家族と共に過ごした烏山頭にある八田邸、奥が八田のベランダ付き書斎)

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1918年7月日本では米騒動が勃発し米価が急激に上昇しています。それとほぼ同時に台湾総督府では第7代総督に陸軍大将明石元二郎が就任しています。その明石総督が1919年台湾の歴史上類のない灌漑大事業の着工の英断を下します。

ちなみに明石は在任中に死亡した唯一の総督です。日露戦争中、ロシア語が堪能だった明石は児玉源太郎(この時点では台湾総督も兼務)からの指示で1905年ロシア革命(第一革命)を扇動して諜報活動すると言う密命を帯びて地下活動で暗躍、ロシア帝国に揺さぶりをかけた駐在武官でした。

当時で200万円の機密費用を受け取り、レーニンなどに対して革命資金として拠出していましたが、1銭たりとも自分の懐に入れずにその会計報告はきちっとした清廉潔白な人物であったそうです。陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学卒の一貫して優秀な陸軍軍人で、将来は総理大臣の器とも言われていました。享年56歳。

(元々明石の墓は私の居住する台北市森林北路にある森林公園内にありましたが、現在では別の墓地に移されました。当時の鳥居と南洋樹のみ残されています。)

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さて八田は2年間の土地測量調査・予算編成・設計を経て、1920年9月から嘉南大圳烏山頭水庫の建設に取り掛かります。それは大規模な導水工事・給水排水路開削・ダム建設などの水利工事計画でした。

(烏山頭水庫の計画~設計~着工~完成まで家族と共に過ごし子宝にも恵まれた。)

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(2000名以上の作業者と職員が暮らした宿舎図。テニスコート・小学校・プール・クラブも完備、広場で盆踊りや映画観賞会も実施されたらしい。実は小学校の裏手には作業で犠牲になった方々(約140名)の墓碑もある。)

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 最新の掘削装置や運搬装置や鉄道関連敷設も必要でした。必要な大型土木機械は全て八田自らが1922年米国視察をして、最新ダム建設土木技術を見学したうえで発注したそうです。

(掘削装置の一部、当初は手馴れず人手の方が早いと言われた。)

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セミハイドロリックフィル工法と言う、当時では最新のコンクリートを使用しない方式で、粘土・砂・瓦礫を使いダムの底に土砂が溜まりにくい方法を採用したのも八田でした。この工法もアメリカ土木学会の技術者に図面確認して進めたそうです。

蒸気機関車で用材や粘土・砂・瓦礫の土壌を20km離れた曽文渓の川底から運びました。これは延長1237mの堰堤を造るためでした。当時は約2000名もの作業者が働いていましたが、彼らの移動手段としても使用されました。

(ベルギー製で時速約20km、1920年着工から1930年完成まで活躍。)

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1924年には濁水渓による灌漑が一部完成したことにより、第15回で紹介した蓬莱米嘉義晩二号)が灌漑区域に植えられ大成功を収めました。その結果、その地域農民の生活は豊かになったそうです。烏山頭水庫全体の完成を農民は待ち望んだのは言うまでもありません。

アスファルトの部分に運搬用蒸気機関車が走っていた。)

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着工から10年、1930年4月遂に烏山頭水庫が完成します。総工費5400万円(現5000億円)。嘉南平野を灌漑用水が張り巡らせられて、蓬莱米(台中65号)が植えられるようになると二期作で、日本向けに輸出されて農家も更に潤うようになりました。

烏山頭水庫は現在でも嘉南平野を満々とたたえている水で潤しています。更に1970年曽文渓水庫が新たに完成していますが、これも元々は八田のアイデアと設計と言われています。

(烏山頭水庫、別名珊瑚譚と言われた。)

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(給水門)

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1931年八田は台北台湾総督府内務局土木課に復職。その後、1942年フィリピンでの綿花灌漑設備調査のため広島宇品港から出港した大洋丸に乗船途中、アメリカ潜水艦の攻撃に遭い東シナ海にて沈没、八田も死亡。享年56歳。のちに、活躍した烏山頭水庫にお墓が建立されました。

(八田自身が最後まで拒んだ銅像、直立姿勢ではなく考え事をしている姿ならということでこの形になったらしい。戦後一時的に銅像が行方不明になったが、村人のお陰で今も烏山頭水庫を望む場所に墓地と一緒にある。)

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(第22回)台湾の皇民化政策(運動)について

今回は、7月末惜しくも97歳で亡くなった李登輝元総統を偲びつつ台湾における皇民化運動について書きたいと思います。

第19回で書きました通り、台湾における民主活動の先駆者である渭水が創設した台湾民主党は、1931年に解党させられます。同年には関東軍が中国満州にて満州事変を勃発させて、東北三省を制圧するに至ります。その後は日中戦争に突入して泥沼化するわけです。

大日本帝国が台湾を統治始めたころは、清朝時代からの戸籍・風習・文化は強制的に禁止するのではなく緩やかな管理をして、原住民族との融和にも努めてきました。しかし日中戦争の頃になるとその空気は台湾のみならず韓国でも一変します。

つまり、日本本土のみでの徴兵制度では数に限りがあるために、植民地においても本土と同様に、植民地においても完全な日本人化が必要となりました。そのために、皇室及び大日本帝国に対して忠誠と同化を強制化した指導をすることになります。それが皇民化政策(運動)です。

台湾人による民主化運動の機関誌(同人誌)発行、政党創設などは論外であり、思想教育に関して徹底的な監視と干渉を始めます。逆に皇室公民としての神社仏閣への参拝・日本語教育台湾語の禁止・日本人名への創氏改名などを強要することになりました。

ですから、1930年代以降、台湾各地200か所で神社が創建された時期と重なるのです。第11回でご紹介した桃園神社(現桃園忠烈祠)は、当時の姿を現存する数少ない神社の一つですが、参拝の励行を当時は強要したはずです。

(日本の神社と変わらぬ風景、桃園住民からの強い要請で文化遺産としてしっかり保存されているだけでもありがたいものです。)

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 第19回でご紹介した台北北警察署は、現在『臺灣新運動紀念館』にリニューアルされましたが、そこでは台湾の民主化運動や皇民化運動に関することが展示されています。

読み書きについても、内地と変わらないかそれ以上に学校教育に力を入れていました。初等科教育ではしっかりとした教材のもとで日本語を徹底的に叩き込まれたために、今でも相応の年齢のご老人は日本語が達者な反面、中国語を習得する機会を逸してしまった面もあります。

(私の近所にある蓬莱公学校の当時の授業風景、随分と大勢の生徒さんです。)

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国民読本、カタカナで書いてあるのが面白い。)

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蕃人用(原住民族用)学校の非常に簡単な教科書)

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集団での活動や運動会は、日本民族としての集団意識高揚のために地域或いは学校ごとに定期的に開催されていました。面白いところでは、国民保険体操たる運動が存在していました。現在で言うラジオ体操ですが、これは米国の真似で保険会社が健康管理のために創作したものです。当時の日本人ならば台湾人でも踊れた体操だったらしいのです。

国民体操図解掛図、懇切丁寧なマニュアル。どうやら第一と第二が存在したようです。例えば、胃腸を良くする運動にはヨイサ・ヨイサ運動が有ります。ヨイサッと掛け声でも掛けながら動かしたのでしょうか。)

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李登輝元総統は、皇民化運動真っ只中に成人して岩里正男と名乗り、新渡戸稲造の農政学に感化されて京都大学農学部で勉学に勤しみ終戦を迎えました。『私は22歳まで日本人でした・・・』とは李登輝氏の言葉ですが、皇民化運動を肯定的に捉える人物は希少です。

この皇民化運動の名のもとに約4000名の台湾の若者(高砂)が先の戦争で戦地に駆り出されて、日本のために帰らぬ人となったことを思うと複雑な気持ちになるわけです。

 

 

 

 

 

 

(第21回 その3)第二次国共合作から大陸反抗まで

今回は第21回で書いた中華民国南京政府)設立以降、共産党との第二次国共合作から大陸反抗までについて書きたいと思います。何故、中華民国台湾島に移動しなければいけなかったのかを理解するためです。

1925年革命半ばで孫文が亡くなります。革命遺志を忠実に引き継いだのが蒋介石ですが、北洋軍閥に対して北伐を、共産党に対しては上海クーデターで弾圧を進めて中華民国主席(南京政府)に就任します。

一方で、毛沢東が指揮する共産党は国民党から弾圧を受けながらも、ソビエト連邦の支援を受けながら農村を中心として徐々に支配領域を広げていきます。1931年江西省瑞金に中華ソビエト共和国(中華蘇維埃共和国)』を樹立させます。

これに対して蒋介石は、中華ソビエト共和国に対し5回にわたる大規模な剿共戦(囲い込み作戦)を仕掛け、1934年10月には共産党軍を壊滅寸前の状態にまで追い込みます。1934年共産党軍は江西省赣江市瑞金から西部奥地のソ連国境に近い陝西省延安へ移動(大長征)し中華ソビエト共和国は崩壊します。

ところが、もはや共産党軍も終わりと思われた時に奉天爆破事件で関東軍に謀殺された張作霖の嫡子張学良が1936年西安事件を引き起こしてます。

⇒第21回をご参考ください。

これをきっかけに、1937年中華ソビエト共和国(共産党)は、中華民国南京政府)に和平会議の招集・内戦停止・一致抗日・親日派排除を訴えます。

同年年7月日本軍と中国国民革命軍との間で北京郊外盧溝橋で日本軍が演習中に盧溝橋事件が発生します。8月には上海の日本租界(日本人居留地区)及び揚子江に停泊中の海軍に対して中国国民革命軍から攻撃される第二次上海事変も発生します。

北支事変から支那事変と呼称も変更されて、もはや北シナ地区に留まらず中国大陸主要都市部へ拡大する全面戦争の様相を呈してきます。やがては、呼称も大東亜戦争と言われるまでになります。

 

(1990年北京郊外の盧溝橋にて、当時私は某商社北京駐在員でした。今は亡き父母を盧溝橋に連れて行った際の写真。実は後年父親が書いた著作『1941年の日米交渉』に使った一枚。12年7月7日と敢えて”盧溝橋事変”と触れていないところが父らしい。)

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さて南京政府(国民党軍)ですが、当初日本との国力差も考えて徹底抗戦論には否定的でした。寧ろ満州での日本の権益についても融和的な政策を採っていた蒋介石でした。しかし、日中両軍の軍事衝突が華北地区から華中地区へ拡大するに至り、南京政府は徹底抗戦決意をせざるを得ませんでした。

結果、国民党軍と共産党軍は中華民国国民政府から武器・弾薬・資金を調達します。そして抗日民族統一戦線『国民革命軍(第八路軍)』として、第二次国共合作が成立するに至ります。

(第二次国共合作の頃の両党巨頭)

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共産党軍は実効支配地域の中華ソビエト共和国を廃止して  中華民国陝甘寧辺区政府(陝西省・甘粛省・寧夏自治区)として国民政府の行政院直轄区となります。そして下記の4項目の約束をします。

孫文三民主義の徹底的実現のために奮闘する。

②国民党政権を破壊する一切の暴動政策および赤化運動を取り消し、暴力をもって地主の土地を没収する政策を停止する。

③現在のソビエト政府を取り消し、民権政治を実現して全国政権の統一を期する。

④国民革命軍に改編し、国民政府軍事委員会の指揮を受け、その出動命令を待って抗敵前線の責任を分担する。

 

しかしながら順調に第二次国共合作が進む様に見えたのも束の間、1937年12月、日本軍は上海から長江上流地域へ戦火を拡大させて中華民国の首都南京陥落させます。これにより蒋介石中華民国南京政府)は急激に弱体化します。同時に、ソビエト連邦共産党軍に急接近して支援を始めます。そのために第二次合作の理念(上述4項目)は有形無実のものとなります。

首都南京陥落で蒋介石と婦人宋美齢は脱出、1938年中華民国政府は首都を重慶へ臨時遷都します。日本政府としては、これ以上の戦争地域拡大を望まず、蒋介石重慶国民政府を相手とせず水面下では日中和平工作を進めます。

幾つかの和平工作ルートの中で、ターゲットを親日派汪兆銘を中心としたグループと和平の道を探るようになります。

辛亥革命に感銘した孫文の側近として頭角を現す。中華民国国民党要職にあり、蒋介石とは協力と対立を繰り返す。最終的に容共と抗日の蒋介石と袂を分けた。日本の傀儡政権とも言われるが、中国の民主化を真剣に考えた愛国者。1944年名古屋で逝去(享年61歳))

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日本政府(近衛文麿内閣)と南京国民政府(汪兆銘)とは満州国承認と蒙古開拓を前提にして、戦局不拡大・中国からの日本軍撤退・治外法権撤廃、更には蒋介石重慶政府)との合流を軸に話し合いが続きました。

日本政府も1941年12月米英に宣戦布告したために、中国大陸へこれ以上の軍備投入も出来ないため、満州国承認とそこでの権益さえ取り付けられさえすれば支那事変への決着を付けるべく単独講和の道を模索したわけです。

 

(第一次近衛文麿内閣。戦後、近衛(最前列右側一人目)は巣鴨拘置所出頭日に杉並荻窪私邸にて青酸カリで服毒自殺。私の母親自宅が近所であったため幼かった母親は近衛からよく声を掛けて貰ったとの話を聞いた。)

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これには西側陣営(アメリカ及びイギリス)もソビエト連邦共産党軍への支援援助と共に危機感を覚え、中華民国重慶政府に軍事支援(アメリカ合衆国義勇軍)を含めた物資・人的支援を行います。これがのちに1943年カイロ宣言台湾島及び澎湖島の中華民国への返還に言及)にも繋がります。結果的に、日本軍との徹底抗戦へとなります。

⇒第2回をご参考ください。

 

(左側から、蒋介石総統・フランクリン ルーズベルト米国大統領・ウィストン チャーチル英国首相。)

 

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 ⇒第30回をご参考ください。

 

 1945年8月日本の敗戦後、1946年国共内戦が再開します。中華民国国民革命軍は、ソビエト連邦からの全面支援を受けた中華人民解放軍(共産党軍)に厳しい闘いを強いられることとなります。

1949年頃からは、国民革命軍の戦局が決定的に劣勢に立たされます。重慶・南京・北京・広州と次々に国民党軍の拠点を人民解放軍に奪取されます。そのため1949年1月、蒋介石国共内戦の敗北の責任をとって総統を辞任します。

総統代理として李宋仁(副総統)が就任します。李宋仁は中国共産党軍との和平交渉を北京にて開始します。交渉の結果、国内和平協定(案)を持ち帰ります。

この協定(案)の内容は、中国共産党軍との内戦停止と平和回復を謳うと共に、共産党軍(人民革命軍)が国民党軍に勝利したことを認めさせ、以下条件で構成されています。国民党南京政府内の戦争犯罪者処罰・憲法の廃止・軍の再編成(人民解放軍への改組)・官僚資本事業の没収(国家財産として)と土地再編成など8項目からとなります。

実はこの和平協定(案)8項目の中に日本(軍属軍人)に関する記述が有ります。即ち、先の日中戦争に関わった260名の処罰に関して、既に1949年1月時点で国民党南京政府はお咎めなく日本への帰国(帰還事業)を許しています。これについて、新たな中央政府の然るべき機関で対処(裁く)べきと書かれています。

戦後、満州を含む中国大陸には100万人以上の日本の軍属軍人が残留していましたが、1948年にかけて武器弾薬没収を条件に帰還事業の一貫で帰国が許されていたのです。武器弾薬は国民党軍に渡り、共産党軍との内戦に使用されたのは言うまでもありませんが、アメリカ軍としては残留軍人が中国大陸に残ることも嫌っていたので帰還させた事情もあるのです。

⇒台湾での帰還事業に関しては、第30回をご参考ください。

さて交渉で持ち帰った国内和平協定(案)ですが、国民党は調印を拒否します。その結果、交渉決裂となって長江流域での戦闘(渡江戦役)を経て中華民国首都南京は共産党軍により陥落して占領されます。

1949年10月には、毛沢東中華人民共和国建国の宣言をします。交渉に当たった李宋仁はアメリカへ亡命します。フランクリン・ルーズベルトの後任大統領トルーマンに対して、台湾の蒋介石の打倒を訴えた上で台湾をアメリカ合衆国領土とする案も持ち掛けます。

1949年12月、首都南京を奪取された蒋介石宋美齢及び息子蒋経國と共に成都から台湾へ移動します。翌年、台湾総統に復職します。1954年の総統選挙に再選されますが、アメリカ合衆国へ亡命した李宋仁は副総統を解任されるます。

 

中華民国政府臨時首都:重慶⇒南京⇒広州⇒重慶成都台北へと遷都を繰り返します。)

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台北へ移動した当初は、台北を臨時首都として正式首都南京を武力で奪回する機会を伺う(大陸反抗)の計画でした。ところが米ソ冷戦時代を迎えることにより、徐々に中華民国中華人民共和国から首都南京を奪回するのは現実的に困難な時代となりました。

1971年国際連合総会において、中華人民共和国が中国の正式な代表国家として認定されたことにより、中華民国国際連合を脱退します。更に1952年に締結した日華平和条約を破棄して、1972年日米両国とも中華民国と国交断絶する事態となります。

台北は事実上の首都(中央政府所在地)として暗黙の了解となり今日に至るわけです。

 

 

 

 

 

(第21回その2)台湾の国歌と三民主義について

20世紀初頭の台湾に関わる近代史を勉強する上で、孫文の存在を無視するわけにはいきません。孫文はその生涯で何回か日本へ亡命しているのですが(蒋介石も同様)、1905年亡命先の東京で民主革命を目指すべく中華同盟会を発足します。

清国や当時日本に統治されていた台湾から日本への留学生と亡命者を中心に民主革命を目指す同志と一緒に結成されたわけです。ところが、当初明治政府は黙認していましたが、やがてその活動や会合も活発になり清朝政府との関係で無視にもできず、これを取り締まざるを得なくなりました。

孫文も亡命先を日本(東京)からベトナムハノイ)経由シンガポールへと拠点を移します。そして、この中華同盟会を発足した時の革命理念が所謂三民主義(民生・民権・民族)』になったと言われています。

台湾の学校教育では三民主義が重要で、授業科目として存在するようです。台湾の国家は三民主義歌と言われるほどです。その歌詞は1911年辛亥革命から既に10数年が経過した1924年広東省黄埔に陸軍軍官学校(校長は蒋介石)が設立された際に孫文が祝辞を述べた内容だそうです。

(右手側:孫文(57歳)、左手側:蒋介石(36歳))

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ちなみに、陸軍軍官学校開校翌年には蒋介石校長自ら第一次北伐(北洋軍閥撲滅)を開始して中華民国統一を目指します。その最中の1925年『革命尚未成功(革命未だ成らず)』の遺言を残して孫文が北京協和病院で亡くなります(享年58歳)。

その当時は、容共でしたから国民党のみならず共産党からも数多くの青年が軍官学校へ志願しました。のちに毛沢東の暗殺計画を企てた林彪もこの学校出身者でした。

中華民国国家の歌詞を日本語訳で下記します。

(国家歌詞の翻訳)

三民主義は、我が党の指針です。
三民主義で民国を建設し、三民主義で大同(=世界平和)に進もう。

あなた方多くの人々は、民の為の模範となって、朝から夜まで怠けることなく、三民主義に従おう。勤勉であれ、勇敢であれ。必ず信じ必ず忠実であれ。
心と美徳を一つにして、最後まで三民主義を貫徹しよう。

YouTubeでその国家を聴いてみるとその歌詞内容に比較して随分とゆったりした優しい曲調だとお分かりになると思います。中華人民共和国国歌は事あるごとに聴く機会が有りますが、あの威勢の良い行進曲の様な感じとは別物です。

ところで何かこのゆったり感に違和感があると思っていたら、実は台湾国旗歌というものが別に存在しており、五輪や各種スポーツ大会や国事行事の国旗掲揚の際にはこれを使用するのだそうです。

さて、三民主義(民生・民権・民族)です。民生も民権もなんとなく理解できます。民生とは中華民国国民の平和で安定した生活を目指す。民権とは、中華民国国民の平等な人権と主張をしよう。そしてここで民族について良く分からなくなりました。

民族とは五族共和を指すそうです。つまり、『漢族・満族満州族)・蒙族(モンゴル族)・回族イスラム族)・蔵族(ウィグル族)の諸民族を合わせて民族統一した国家を造る』と言う民族主義に基づいた理念です。

台湾(或いは台湾人)として、ひとつの国家(或いはひとつの民族)と位置付ける場合にこの三民主義と台湾(人)との関係をどの様に解釈すれば良いのでしょうか?